鹿島美術研究 年報第15号
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本研究の中心的課題として取り上げる小川破笠の活躍した17世紀末から18世紀前半は,中国から舶載される書物の数が飛躍的に増大した時期である。また,寛文(1661)年に京都宇治に創建された萬福寺に代表される黄架寺院が全国各地に広がりをみせ,中国文化の紹介・移入が盛んに行われた。このような時代状況を背景に,柳沢澳園,影城百川は文人画の摂取を試み,売茶翁は煎茶を普及させる。そして,小川破笠の芸術活動も,そのような新たな中国趣味の興隆に少なからず影脚を受けていると考えられるのである。⑬ 戦国時代の武人画家に関する研究研究者:群馬県立女子大学助手大石利雄相見香雨氏,田中一松氏により先鞭を付けられた武人画家に関する研究は,その後も進展を見せ,絵画史上の位置づけもほぼ定まったといってもよいだろう。その系譜といったものも想定されているが,一方,個々の画家に目を向けるなら,依然として未解決の問題が残されているのも現状である。本調査研究では,戦国武人画家の代表的存在である山田道安と土岐洞文を取り上げ,それらのかかえる問題点にせまってみたい。筒井氏の一族である山田道安で問題になるのは,周知のように順貞,順清,順知の一代にわたってともに画をよくし,いずれも道安と号し同じ印を用いたと伝えられることであろう。実際,伝存する作品からは画風の相違や画作年代の隔たりが確認できる。しかしこれには複雑な問題もからんでいるようであり,それが三代のうち誰の手になるかなどといった,具体的な解明はまだなされていない。画風•印章の検討を含めたより詳細な研究が必要であることは言うまでもないが,本調査研究では,従来あまり注目されていない作品や著賛画などを手がかりに,少しでも解明の糸口を見出したいと思う。一方の土岐洞文については,申請者はすでに簡単な報告書を提出(「群馬県立歴史博物館調査報告書」第7号)しており,それを発展させるものである。伝記不明のこの画家については,今後の調査研究により,活躍年代,活躍地,画風形成といった点に関し,より具体的な形で示せるように思われる。申請者はここ数年来,16世紀を中心とする戦国時代の画家に興味を持ち研究を進め-73 -

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