鹿島美術研究 年報第16号
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しかし全体の構成は,19世紀にもなお―主として海賊版の版画を通して—広く流半ば空想上の海の怪物としての鯨は,早くから西洋の美術にたびたび表されたきた。しかし現実の捕鯨の光景が盛んに描かれるようになるのは,17世紀半ばにグリーンランド捕鯨が開始されてからのことで,当時はオランダが捕鯨図制作の中心地であった。もっとも,実際の捕鯨についての情報は,専ら捕鯨船の乗組員のスケッチないし記憶に頼るほかはなく,したがってごく限られたイメージが繰り返し利用される結果となった。17世紀のオランダの捕鯨図を概観してみると,大きくふたつのパターンに分けることができる。そのひとつは,捕鯨活動のさまざまな過程や遠洋の珍しい風物を一枚の画面の中に盛り込んだものであり,もうひとつは,捕鯨の進行にそって連続した画面に描き分けた「セットもの」である。後者の形式は,直ちにターナーの〈捕鯨〉作品を思い起こさせるのではないだろうか。彼が制作した4枚の画面でも,鯨の追跡一捕獲ー解体一鯨油の精製という一続きのプロセスが表されている。個々の場面については,画家はおそらくビールの著作を含めて複数の異なった源泉に拠っているだろう。布していたオランダ捕鯨図の作例にならったと考えられるのである。ところで,ターナーの〈捕鯨〉作品の中で,鯨そのものが占める割合は意外なほど小さく,むしろ海と空と氷からなる遠洋の風景の方に圧倒的な比重が置かれている。これらの表現に示唆を与えたものとして,すでに幾つかの発想源が推測されてきたが,注目されるのは,いずれも南北の極地探検の航海をターナーの〈捕鯨〉作品と結び付けていることである。18世紀後半以来,英国は地球上の各地に科学的探検の船を送り出してきた。それらの成果は,詳細な記録と豊富な図版からなる「航海記」や「博物誌」のかたちで次々に出版された(前出のビールの本もそのひとつである)。のみならず,当時しばしば起こった探検船の遭難事故は,より速やかに,よりセンセーショナルに新聞等で報じられた。つまりターナーの創意を促した源泉については,これまでに指摘されてきたもの以外にも多くの可能性があったのである。今回の研究では,ターナーの絵にイメージを提供したものを特定するには至らなかったが,この時代に著しく進展した自然科学の探究が一一その一翼を担う博物学(ことに鯨学)や極地探検に関する情報の増大が,彼の眼を自ずと遠い外洋へと向かわせたことは充分に確認されたと思う。とすれば同じことは,ターナーばかりでなく他の画家たちにも起こりえたはずである。実際この時期,従来の「海景画」の範疇に収め18

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