きれないような,いってみれば「外洋画」とも呼ぶべき作品が多数制作された。そしてその多くは,やはり同時代の出版物およびそこに含まれる挿絵図版に想を得て描かれたのである。近年,自然科学と美術の関わりが盛んに論じられるようになったが,本論もまた,この大きなテーマに対するひとつのアプローチとなることを期待したい。② 「小林清親の洋風表現について」発表者:太田記念美術館学芸主幹加藤陽介版画とは思えないような質感とテーマによって人気を得たようで,彼の画業において特筆される作品群となっている。しかし,それ以降の清親は,ポンチ絵や戦争画制作などの活動がとりあげられるものの,伝統的な浮世絵のテーマと表現方法を終始固守したようにみられている。新しい印刷技術や絵画運動の到来によって明治期は“錦絵の衰退”と称され,浮世絵師は近代から取り残されたかの感がある。“最後の浮世絵師”と称される清親は江戸以来の版元制度の中に終生身を置いた浮世絵師であることに違いなく,そのことを強く自覚していたと思われる。しかし,この流行絵師が近代に残した業績はそうした範疇を超えたものである。“開化”を単に機関車や蒸気船で描くことではなく,表現自体に求めたことからもそれが窺えるであろう。今回の発表は,清親の洋風表現にまつわる初期と晩年の二つの事例を報告し,それを通じて,近代に画業の根を下ろした浮世絵師清親を考えようとするものである。は,画業をスタートさせた明治9年から発表しはじめた一連の新東京名所風景版画である。水彩画を思わせるような淡い色調で,光を十分に意識したこの木版画は,「光線画」と名付けられ,“赤絵”と呼ばれる強烈な色合いの浮世絵版画が氾濫していた中,新鮮な印象をもって受け入れられた。またこの頃制作された「提灯と猫」などの動物画・静物画も,木小林清親(1847■1915)の代表作として名高いの-19 -
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