鹿島美術研究 年報第16号
63/116

放されて捉えられることの多かった,江戸から明治にいたる美術史がひとつの流れとして捉えられようとしている。そのような気運のなかで,およそ明治14年を区切りとして研究されてきた観のある小林清親の全体像について,もう一度捉え直すことの意義は少なくない。小林清親は従来「光線画」の創始者として評価が高く,またそれとは別に,時代風俗を的確に捉えた風刺画の作者としての研究がすすめられてきている。「光線画」は明治9年に高い完成度で突然現れ,明治14年にその需要があるにも拘わらずまた制作が突然中止される。その後風刺画やポンチ絵以外の版画も制作しているが,江戸時代の表現,技法に回帰したといわれ,必ずしも評価は高くない。版画の近代における変遷を美術史的な方向性で跡づければ,そういう位置づけになるであろう。しかしむしろ,需要のある作品の制作を何らかの理由,多分意志を持って中止したことに,それまでの浮世絵師とは異なる一面を見ることができる。小林清親の画業を従来の美術史の枠組みにとらわれすぎることなく考察することができれば,幕末明治期における新たな「美術」の視点が探れるのではないだろうか。③ 1950■60年代の日本画の変革の試みとその作風の変遷—ーパンリアル美術協会を中心に_研究者:東京国立近代美術館主任研究官都築千重子戦後,日本画滅亡論や日本画第二芸術論すら叫ばれるという危機的状況の中で,日本画壇そのもののもつ因襲的な従弟制度,年功序列,といった封建的体質のみならず,日本画の材料や技法,表現内容に対しても鋭い批判と深い反省が芽生え,若手日本画家たちの間で改革意識がかつてないほど先鋭的な形で現れた。この新展開の戦後日本画の動きの最も急進的・実験的なものの一つが,1949年に結成されたパンリアル美術協会で,日本画のもつ日本画的体質を否定して膠彩芸術の可能性を追求し,材質主義による芸術創造を目指すものであった。本研究では,このグループの代表的画家三上誠,星野慎吾,下村良之介,不動茂弥ら作家とその遺族及び関連の深い京都,福井,豊橋の美術館や画廊にて作品・資料調査,資料収集し,彼らの活動の実態ならびに個々の1950-60年代の作風の変遷について解明しようと考えている。-37 -

元のページ  ../index.html#63

このブックを見る