国立近代美術館ほか,1982),「アメリカに渡った美術家たち」(長野県信濃美術館,1990)などという優れた実績もあるが,基本的に東部に在住した画家に限られており,西部在住画家への言及はほとんどなされていないのが現状である。まして,最終的に日本に戻らず国内の既成画壇と全く接触しなかったミキ早川については,画業全般について殆んど調査されることがなかった。しかしながら,彼女の米国内での評価は決して低いものではなかったと言われている。また,日本の洋画に大きな影響を及ぼした石垣,野田なども最終的には東部に赴いたとはいえ,サンフランシスコに居住して美術活動を行っており,ミキ早川との交流も予想される。早川の活動をたどることで戦前期に米国西海岸に渡った日系人画壇の状況を提示できると思われる。彼らの多くは経済的事情で日本から来た移民であり,激しい日本人排斥運動や偏見と戦いながら,美術活動を続けてきたものたちである。1924年には新移民法が制定され,日本からの移民は途絶えるが,すでにサンフランシスコには日本人社会が確立されており,日系人同士のみで社会活動や経済活動が成立していた。その中で画家集団は日系人美術界に対しての顔とアメリカ美術界に対しての顔の両方を担っていた。既成の洋画史では,東部やヨーロッパに「学ぶために」出かけて帰国した画家ばかりを語ってきたが,彼女をはじめとする移民画家の描いてきたものは,忘れてはならないもうひとつの日本美術史であり,海外とのもっとも現実的な接触であろう。⑧ 仏涅槃図の研究—高山寺本・浄教寺本を中心として一一"研究者:東北大学大学院文学研究科博士後期課程谷口耕一般に涅槃図は釈迦の姿形や構図などにより大きく二形式に分類して研究されることが多い。すなわち,両手を体側に付けた釈迦の姿を足元から見る構図で描くものを第一形式,右手枕で横臥する釈迦を頭の方から見る構図で描くものを第二形式と呼び,本研究で主に取り上げる高山寺本と浄教寺本はふつう第一形式に分類されている。多くの研究者が第一形式は唐画,第二形式は宋元画にもとづいて成立したと考えており,どちらに分類されるかが図像の新旧を判断する際の最も大きな基準となってきたようである。しかし高山寺本と浄教寺本を含む第一形式とされてきた涅槃図を概観してみると,-41 -
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