論考など,作家研究の枠組みを越えた,概観的研究成果も出されているが,他の分野に比べ停滞しているといわれている。そこで「文人画」としてくくられた作家や作品群を,中国から入ってきた一様式(技法),特に,視覚的にも豪華で,「やまと絵」とは趣を違えた装飾性のようなものを持つ「青緑山水」とよばれる様式に着目して,その受容と展開,さらに江戸の人々の認識をさぐることも,江戸の中国文化受容の様相を知る,一手段となると考える。「青緑山水」は李思訓父子が,菫其昌の「尚南貶北論」において「北宗画」とされたためだろうか,日本の文人画(南画)研究での各作家のこの様式での作品は,必ずしも積極的に取り上げられたことは殆どない。しかしながら,先学の用語や真景図の問題とも付け合わせてこの問題を考察すれば,当時の人々の「文人」や「文人画」に対する理解がより具体化すると考える。併せて「青緑山水」という特異なスタイルの造形的な意味に関する日中間の差異も見えてこよう。⑬ 秋田蘭画起因に関わる基礎的研究研究者:秋田県立近代美術館学芸課長補佐太田和夫江戸時代後期,1700年代も後半に興ったわが国における重要でかつ先駆的な美術事象「秋田蘭画」は,長崎で西洋の実用的知識や技術を学び江戸で活躍した平賀源内の「秋田蘭画」人に対する指導的役割,秋田藩主佐竹家の庇護のもと先導的に洋風画制作を進めた小田野直武の制作の場がおもに江戸の地であったことなどから,これまで江系の洋画として捉えられてきている。確かに,小田野直武を助言者として洋風画を描き,西洋画論をも著した進取的秋田藩主佐竹曙山は,同じく先取的な他の大名たちとの交流を江戸で行う方が万事都合が良かったであろうこと,直武自身が蘭学者や他の画家から情報を収集するにも,江戸で生活を共にしたとされる源内や彼の身辺からおもになされたであろうことなどからも,芸術を含めた多くの分野の先進情報の紺禍であった大都市江戸における影響を見逃すことはできない。しかし,地方の一武人画家直武が源内との出会いとなる安永2年(1773)を転換点として,翌3年には「解体新書」附図の解剖図原画の制作にはやくも関わるというあまりにも急激な進展は,源内との出会い以前に直武や佐竹家には西洋の知識を得られるような資料-書籍,絵画などが備わっていたのではないか,或いは実学的(蘭学,-45 -
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