鹿島美術研究 年報第16号
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測量,など)分野での西洋的要素がすでにあったのではないかとも推測されるのである。ここでは,秋田蘭画起因につながる江戸系のルートと別に,「秋田蘭画」人たちの郷里秋田を中心として東北の地にルートを求めてみようと試みるものである。調査は,東北各県の近世史文献の調査,秋田蘭画の文献整理と作品の悉皆調査,そして可能ならば,福島県須賀川を中心とした亜歌堂田善の文献と作品調査を進めたい。成果としては,洋風画制作の端緒となるような安永年間以前に「秋田蘭画」人が所蔵していた書物,或いはそれを証明するような文書などの検出,芸術分野以外の実学的分野からの影響の可能性などを考えている。秋田蘭画起因の地域性と新たな視点での近代性が見い出せるのではないだろうか。⑭ お抱え絵師の明治維新—熊本藩絵師杉谷雪樵の場合ー一研究者:熊本県立美術館学芸員村田栄近世の絵画史において,お抱え絵師の活動はまた,見逃すことはできない。江戸や上方とは違い,とくに地方の藩において,お抱え絵師は絵画制作の主導的役割を担っていた。熊本藩のお抱え絵師として知られるのは,雲谷派の画系につらなり,宗家が矢野の姓を名乗る絵師である。その最後が杉谷雪樵(1827-1895)である。雪樵は藩の絵師杉谷行直の子で,絵を矢野家6代良敬に学んだ。幕藩体制の崩壊は,当然お抱え絵師たちの生活と制作の基盤をこわしてしまい,雪樵もその時期,流行の南画に手を染め,生活の糧を得たとも伝えられている。しかし,雪樵は明治時代の進行とともに,写生画など諸派をとりいれつつ,ふたたび構成のはつきりした,いわばアカデミックな画風に回帰したようにみえる。構成の堅固さには西洋画風の受容さえ感じさせる面もある。西洋画風を受容していることに,維新前後の雪樵の絵画的変容はみられるようにもおもわれる。こうした小見は正しいのだろうか。それは,他藩のお抱え絵師の一般的傾向であったのか,否か。検討すべきことが多い。-46 -

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