側の意思が働いてはきたが,受け取る側のことは無視されてきた。「近代」とくに明治期の日本人は,ある日突然に「美術」や「美術品」という言葉と直面する。そこから各人それぞれに美術観をつくつていった。「美術」という言葉が公けにはじめて使われたのは明治6年のウィーン万国博覧会の出品規定の中である(北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社,平成元年)。「美術」という言葉が辞書にはじめて出てくるのが明治21年「漢英対照いろは辞典」である(『明治のことば辞典』東京堂出版,1986年)。一般に言葉が使用されてから人々がその意味を認知し,辞書に出るまでの間の「美術」観を追うことは今まであまりなされていず,それは日本の近代化の過程において美術を考える上で大変重要な側面であると考える。それら調査において美術と常に関係をもって論じられてきた文学の,特に文学作品として発表された文の中から美術に関する記述を取り上げ,一般のもつ美術に対する考えとの合致点,相違点を浮き彫りにしていくことにより,近代日本人がもつ美術観を明らかにしていけると考える。⑰ ポール・ゴーガンのタヒチ作品が19世紀末〜20世紀におけるタヒチ・イメージに及ぼした影響について研究者:成城大学大学院博士後期課程高久本来,楽園のイメージは十人十色,多々あってよいはずである。しかし,現代の,とりわけ先進国に通俗的に流布している楽園のイメージとは,南海の楽園のイメージ(青い海,白い砂浜,花咲き乱れ,豊かに果物がなっており,官能的で従順な原住民の女性がいる常夏の島)だといってよい。タヒチは今世紀においても,そのような楽園のイメージを世界に発信し,観光市場に供給し続けてきた。そして今なおタヒチは,他の南海のリゾート地と比べて別格であり,そのことはもっとも渡航費,滞在費が高いことに端的に表れている。本研究では,19世紀末以降,ゴーガンによるタヒチのイメージ,とりわけタヒチ女性に関するイメージが,その後の映画(1928年撮影の『南海の白影』を嘴矢とするタヒチを舞台としたもの),絵画(ゴーガン以降の芸術家によるタヒチを主題とした作品),風俗写真や絵はがき,観光業の広告媒体でどのように受容,利用され,こんにちまでなお流布,再生産されてきたかを考察したい。そして,ゴーガンのタヒチ作品が,19-56 -馨
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