鹿島美術研究 年報第17号
37/110

officia sunt depicti)」と書いている。当時ル・マン大聖堂には,13世紀前半に製作されて,当時のシャルトルに未だ同業組合とは呼べないにせよ何らかの職業集団が存在しており,彼らが税など何らかの形で大聖堂の再建と装飾に寄与したことはなるほど確かであろう。しかし,王侯貴族や聖職者によって寄進された窓と並ぶ多数の窓(しかも一部の職種は複数の窓)を寄進することは,当時のシャルトルの経済規模を考慮すると状況的にありえないことと思われる。また,これらの働く人々のイメージは,職人や商人たちの仕事の現場や風俗に取材した「写実的」な作品であることや表現の多様性が強調されることが多い。しかし実際には限られた数のモデルをコピーしたり編集したりして製作されているとともに,職種もそれほど多くなく同じ職業が何度も繰り返して現れる。これらのイメージは,大聖堂の側廊と周歩廊の地階レヴェルと高窓に集中し,他方,王侯貴族(武装した騎馬像や紋章によって表現)と聖職者(祈る姿で表現)が描かれる窓は内陣と交差廊に集中している。それゆえ,大聖堂の建築全体におけるこれらのイメージの配分には司教や参事会による操作が働いており,職業集団による窓の寄進が実際に多数あった結果とするよりも,これだけの数の窓に働く人々の姿を描くということがまず先にあったと推測できよう。寄進行為を行った職業集団の職種を明らかにするためでないとしたら,なぜ彼らは働く姿で描かれているのだろうか。この問題を考える前提として,シャルトルの働く人々のイメージをめぐる解釈において言及されていないが,1254年頃に製作されたル・マン大聖堂内陣のステンドグラスに関して当時のル・マン司教ジョフロワ・ド・ルーダン(Geoffroyde Loudun)が直後に残した記録に発表者は注意を促したい。その中でジョフロワは,葡萄栽培を営む人々が一つの窓(Corpusvitrearum, baie 107)を寄進したことに触れて,「人々の名誉について黙するべきではないと私は考えた,というのは,彼らは高価な窓を作りながらも,義務に服する姿で描かれているからである(perた働く人々のイメージを伴う窓がすでに多数存在しており,この司教もそれを眼にしていたはずと推定されるが,彼の言葉はむしろこうしたイメージが窓の寄進者を表すとは通常考えられていなかったばかりか,その栄誉にふさわしい表現形式とは見なされず,それと逆行するニュアンスをそなえることを示している。ここで用いられている「義務(oficium)」という語彙や論調は,キリスト教会の理想的なあり方を語る神学者たちのテキストと共通する。これらのテキストには,「祈る人々(oratores)」,「戦う人々(bellatores)」,そして「働く人々(laboratores)」のそれぞ-17 -

元のページ  ../index.html#37

このブックを見る