鹿島美術研究 年報第17号
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④ 「『移行期』のローマ画壇とカラヴァッジオ」1592年から,サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の「聖マのか,についてである。それらの検討を通して,当時日独双方で出版された新聞や雑誌などからは,古美術展が,ナチスの文化統制の中に組み込まれ,1::::トラーが関心を示した展覧会として,あるいは欧州で一番すぐれた日本古美術の展覧会として強調されたことなどを確認する。日本側がドイツ側に対して期待した作品選定の意図は,ドイツの専門家たちによって大方理解されていたが,一般観者の間では,日本側の意向に答える評価を示しつつも,一部に日本側が特に注目していなかったものが評判を得た。すなわち,数ある出陳作品の中から浮世絵が選ばれたことである。これによって,依然として19世紀以降の浮世絵=日本美術の見方が,一般的な認識として流布していたことを指摘する。ベルリンの古美術展については,展覧会後のドイツの日本研究に与えた影響などの問題が残されているが,それらは今後の課題にしたいと思う。発表者:神戸大学文学部助教授宮下規久朗化や,カラヴァッジオの作品に示されている同時代の作品からの強い影響を考慮にいれるとき,ある程度の修正を余儀なくされるだろう。カラヴァッジオの革新性は,当時の美術界との関係でとらえることによってその意義が十全に明らかにされると考えられる。カラヴァッジオとともに新様式の担い手となったアンニーバレ・カラッチは,ボローニャですでに大規模なフレスコの仕事をこなしており,1595年にローマにやってきたときには画風がほぼ確立していたのに対し,カラヴァッジオは,ローマに来たタイ伝」連作を公にする1599年までの期間に,比較的自由に様々な画風を吸収しなが1610)は,16世紀後半の衰微した後期マニエリスム様式に反発し,ロンバルデイアの素朴な写実主義をミケランジェロとラファエロに代表される盛期ルネサンスの古典主義と融合されることによって,バロックを先駆する革新的な様式を確立したとされている。しかしこの図式はやや単純にすぎるきらいがあり,当時のローマ画壇に起こりつつあった微妙な変-20 -美術史的な常識では,カラヴァッジオ(1571■

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