る情報は現在極めて乏しい状況にある。そこで,多方面から可能な限りの永敬に関する情報の収集をし,それらに基づき永敬の具体像の把握に努めたい。永敬に関する情報収集が進み,永敬の具体像が把握できた場合,それを分析することにより永敬を日本絵画史上に正しく位置づけることが可能となる。例えば,次の二つの分析が考えられる。京都狩野家という観点からの分析と同時代の絵画状況の観点からの分析である。前者は山楽・山雪・永納と続いてきた京都狩野家の伝統を永敬がいかに継承していったかが興味深い。永敬の後にも京都狩野家は連綿と続いた訳だが,京都狩野家において永敬が果たした役割は何だったのか。これが問題となる。後者は同時代の絵画状況の中に永徳を置いた時,何が見えてくるのかが興味深い。特に尾形光林との関係が気になる。永敬も光琳も二條家に出入りしていたことが『二條家内々御番所日次記』より分かっている。確実に彼らには面識があったのである。とするなら,二人の作品における影響関係の存否,そしてその理由,これらが問題となる。狩野永敬に関する情報収集,そして,その分析。それらから新たに見えてくることがこの調査研究の意義であり,価値でもある。⑥ 江戸時代火事絵巻の研究研究者:株式会社御花柳川藩歴史資料室学芸員植野かおり江戸時代を通じて,狩野派の絵師にとって粉本主義というものが,その絵画制作上重要な意味を持っていたことが言われて久しい。申請者が研究対象とした「火事絵巻」はその多くが狩野派の絵師の筆になるものであり,他の狩野派の作品がそうであるように,基本的には古画の模写から習得された描法や空間構成が制作の基調となり,複数の絵手本や模写を組み合わせて作り出されたものであることが想像できる。さらに幕末期の作例をいくつか見てみると,火事の進行を絵のみにて叙述するため効果的であったと思われる図様がくりかえし利用されるという図様の伝承も窺える。さらに,次のような「火事絵巻」の特質にも注目すべきであろう。・幕末期に多く見られる「火事絵巻」図様の最も早い作例が『目黒行人坂火事絵巻』とすると,そのパターンの発生は1700年代の終わり頃で,その直接の先例となる絵巻はなかったという仮定に立つと,江戸時代後期の絵師によって御用に応えるべく創作された図様であるということ。-38 -
元のページ ../index.html#64