鹿島美術研究 年報第17号
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曰しーノ53.2cm)南北朝時代木下家蔵の解明を考えるようになった。今後は,この象頭人身⑰ 1960年代日本のパフォーマンス研究1998年,ロサンゼルス現代美術館の企画により東京都現代美術館で開催された「アらえられてきた。この真言密教の根源にある融合の聖なる表現は,有名な明恵上人の念持仏として,弥勒菩薩を軸とする遺品が伝承されており,筆者はこれの入念な考察を行った。(「貞応三年銘の鏡弥勒像と百光遍照観」『国華』1095号参照)。さらに,別尊曼荼羅の多彩なバリエーションは,空海請来の梵字も取り込んであり,独特の曼荼羅をも生み出していった。(「空海請来梵字身掲と摩尼宝珠曼荼羅」『仏教藝術』122号)において筆者は請雨経法とも密接な関係のある南都の舎利信仰と基盤とする構造を解明した。このような視点から,別尊曼荼羅の私の研究対象は⑥歓喜天曼荼羅(89.7X の別尊曼荼羅と神仏習合・修験道系の曼荼羅の展開を彩飾本の流布という視点で関東=東国の詫間派の諸作品との比較も含めて,考察してみたいと考えている。研究者:福岡アジア美術館クション展」は,1950年代から近年に至るまでの,欧米および若干の非欧米圏での身体を伴う表現やオブジェ,その記録を紹介したものであったが,このような展覧会は,「具体」回顧展の一部や,私が企画した「九州派」「ネオ・ダダの写真」「集団蜘蛛の軌跡」などを除いてほとんど開かれていないし,「ハイ・レッド・センター」についても当時の美術家による記録以外の出版物が皆無に近い。また,このような今の用語でいう「パフォーマンス」は,1980年代には日本でも市民権を得た言葉になったにもかかわらず,その表現の可能性が真摯な学術的な場で論じられることは殆どなかった。それはそのような表現が,あまりに過激ないしは卑俗な反制度,反体制とみなされたり,物としての作品が残り得ないために,いわば今にるまで「マイナー」な領域とみなされてきた。しかし,近代的な制度としての「美術」が確立する以前の社会においては,身体的な表現は,宗教・政治・芸能などでは一般的なメディアであり,それが「近代」以後の社会に露呈するや否や,珍奇な風俗として消費されるか,政治的検閲を受けたりアカデミックな美術観によって黙殺されてきたのである。しかし,日本近代に限っても,1920年代のMAV0に始まり,1950年代の初期「具体」,1960年代初頭の反芸術,田-47

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