鹿島美術研究 年報第17号
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① 「来館者」や「潜在的来館者」とはいったいどんな人間か,を知ること② 「来館者」の「美術館体験」とはどんなものか,を知ること③ 「来館者」とその「美術館体験」を知ったうえで,それを美術館活動の評価に適用するにはどうすればいいか,を考えることどちらかといえば,曖昧で捉えにくいと考えられていた来館者像を描き出すことで,これまでの美術館活動でややもすると等閑視されてきた課題に見通しをつけ,その研究結果を公開することによって,廣くこれからの美術館活動に役立つものとしたい。「来館者」像を捉えることは様々な美術館活動の見直しにつながっていることと思われる。⑰ 明兆による中国画の学習ー一「五百羅漢図」東福寺本と大徳寺本との比較ー一・研究者:東京藝術大学非常勤講師仙海義之江戸中期,狩野永納が著した「本朝画史」では,倭画・漢画,両様式の統合者として狩野派の正当性を説いている。漢画とは,宋・元画の主題・様式に倣った画として一般に了解される。しかし,実際に狩野派の画人達が,漢画という主題・様式をどの様な機会から習得していたのかを,もう少し丹念に見つめ直す必要があろう。狩野派の画人達は周文や雪舟が得意とした山水画の様式を障壁画の大画面に展開した。一方,彼らはまた,多様な画題に臨まねばならなかった。仏画や人物圃をも新たな様式で表すに当たっては,一体,何を範として学んだのであろうか。『本朝画史』巻第三「中世名品」では,明兆を,中国画を学んだ仏画・人物画の名手として称揚する。狩野派に至る漢画の系譜を理解するためには,仏画・人物画の面からこの流れを切り開いた一人として,明兆の存在を無視出来ない。大徳寺本という中国画を学んで制作された東福寺本「五百羅漢図」は,明兆による中国画学習の実態を伝えるものとして貴重な作例である。30代前半という,まさに技を充実させようとする時期,明兆は中国圃から何を学んだのか。後に漢画として継承される様々な絵画表現の要素が,この体験によって取り込まれたに違いない。ここで,学ばれた主題や様式が明兆自身の画業の中に,赤脚子・霊彩等の弟子達の中に,後世の狩野派の画人達の中等に,どのような軌跡を残していったのか興味深い。「五百羅漢図」制作における,明兆の中国画学習の実態を検証することは,後世につ63

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