らなる漢画の系譜の初期相を紐解く作業に他ならない。⑱ 尾形光琳の水墨人物画の画風成立について―維摩図を中心に一研究者:早稲田大学大学院文学研究科博士課程江村知光琳の水墨人物画には布袋,大黒天,寿老など近世さかんに制作された吉祥的な画題や,神仙や四愛図のように中国孤児に基づく道釈人物画などの作品があり,多種多様である。従来言及されてきたように,そこには先行する俵屋宗達,松花堂昭乗,あるいはまた狩野派,雪舟など諸家の影曹を少なからず受け,それを継承または変容させて独自の表現に至っている。申請者は,その様々な学習や錬磨の完成形を水墨人物画としては維摩図に見ることができると考えている。光林の水墨人物画を概観すると,簡略にして鋭い筆致で対象物を表出し,その画風は親しみやすく大衆的である。しかしこれらは単なる遊び心のある絵や,俳画的要素をもつ絵とは本質的に異なり,そこには光琳の知的な諧調性が反映されていると考えられる。独創的といわれる光琳の水墨人物画の成立要因を考察することが本研究の主目的であり,具体的には維摩図を中心に検討したい。光琳の維摩図は仏教尊像としての威厳ある像容から著しく変容しており,その成立過程を考察することは,維摩像そのものの展開を明らかにすることでもある。維摩という人物と経典はインドを起源とするがその作例はインドには確認できず,中国においてさかんに造形化された。在家にして並み居る菩薩や仏弟子たちを弁舌爽やかに論破したという維摩が中国士大夫のイメージと重なって信仰を集め,絵画化され,それが日本にも請来された。あるいはまた白鳳時代に藤原鎌足が始め,のちに興福寺において維摩會が三大會の一つとしで恒例化され,江戸時代中期に至っても修法されていたという歴史的・宗教的背景もある。維摩という人物のイメージが知識人はもとより,一般大衆においても広がっており,近世においては礼拝図像以上の展開を受け入れる基盤が用意されていたと推測できる。光琳の維摩図の成立要因を検討することにより,光琳の水墨人物画における技法・表現を理解し,ひいては維摩像の展開を明らかにするものであると考えられるのである。-64-
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