鹿島美術研究 年報第18号
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た2グループに,新しくポスト・コロニアル批評の視点から迫るものである。ることを促す,価値ある英文資料となる。さらに,中心と周辺•他者と自己という概に,1950年代—60年代の流動的文化の範疇内に存在する自己の認識が,二つのグループ⑮ ボッティチェッリの礼拝図とメディチ家の肖像画に関する研究1952年の占領時代の終了から,1964年の東京オリンピック開催を象徴的な完結点と見ない。この研究は,現在まで一環した研究の対象として同時に考察される事のなかっ価値:本研究は,文化的枠組みを超え,国際的視野から考察する為,批評・研究の地盤上にある非西洋と西洋間のギャップを狭める事に貢献する。調査の段階で,海外研究者には入手困難である日本語資料を活用し,資料リストの充実に努めるため,今後分野内での研究の足がかりとなるだけでなく,欧米の西洋美術史家が彼ら独自の視点から「日本」というサブジェクトに対峙しても,それが能動的存在として理解され念の力関係を議論するポスト・コロニアル批評の分野へも,学際的に有意義な資料となる。構想:第一に,日本のモダニズムの起源と系譜,画壇の構造,戦後の社会状況といった背景を明らかにする。第二に,研究範囲である2グループの活動期間と重なる。る時期に,文化国家のスローガンを掲げた日本における「美術」を,「文化」という構築された概念の一要素として分析する。この文脈から,美術の制度的純化に逆らう実験工房のユートピア思想が明らかにされ,それが60年代にはハイレッド・センターの諧請の思想へと移行する様が描き出される。第三に,上記の二つのグループが,モダニズムの芸術至上主義を復刻させた画壇の外部に位置したことから,かれらにとっての「前衛」の存在理由がどこから発し(主体性の問題),何に向かっていたのか(他者の認識の問題)を,欧米の前衛美術の系譜との関係を念頭に置きつつ検討する。最後の美術表現上にどのような視覚的・方法論的な変化をもたらしたかを考察する。研究者:流通経済大学経済学部助教授関根秀一ボッティチェッリは没後すっかり忘れ去られ,19世紀になって再発見されたものの,レオナルトやラファエッロの蔽で,いわば「忘れられた存在」であった期間が長かったために,その名は現在これほどまでに有名であるが,ボッティチェッリの各作品に関するそれぞれの詳細な研究は,ー,二の例外的な作品を除けば,いまだ殆ど手をつ-77 -

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