か。従って,本論では,水彩画の流行という現象を,出来る限りその受け手である大衆の側にたって理解することに努め,近代の日本人の風景に対する認識の変化と水彩画との関連性を解き明かそうと試みた。発表の内容は大きく分けて以下の二部から成る。1.水彩画家による風景の発見明治以降の風景画の歩みは,まずは旧時代の名所絵的束縛から解放されることに始まったといってよい。見たままの自然の一角を描き出すことを画家達は目指したのである。しかし,眼に映る情景をそのまま描写するということはそう簡単なことではなかった。当時の画家の言葉の中にしばしば現れる,過去の風景画の型からなかなか抜け出せなくて困るという種の発言が,そのことを物語っている。このように,風景画の展開には,いわば絵にすることのできる風景の開拓といった観があるのだが,そのなかでも,明治30年から40年頃の水彩画家(三宅克己,丸山晩霞,大下藤次郎,吉田博等)が果たした役割は大きい。彼等が,みずから登山を楽しむ過程で出会った信朴Iの山岳風景は,彼等の手によってはじめて絵画に描かれたのである。ここでは,水彩画家による山岳風景の発見を,白馬会における黒田清輝門下の風景画と対比しながら,近代日本の風景画に欠けていた「深さ」あるいは「奥行き」の探求という側面から考察する。2.水彩画の流行:その背景と波及効果水彩画家大下藤次郎が明治34年に発行した『水彩画の栞』が,明治37年までに15版を重ねるベストセラーとなり,水彩画ブームの火付け役となったことはよく知られている。それは,萬鐵五郎をはじめ,地方の画家を志す若者にも多大な影響を与えたのであった。当時の人々がどういった理由から水彩画を始めるに至ったかを,大下が明何一つ答えたことにならない。水彩画の流行を,芸術史の中に位置づけるのではなく,むしろ広く社会的な現象として捉えること。それによってこそ,水彩画が果たした役割が明瞭に浮かび上がってくるように思えるのだ。近年,社会史や文学史の領域から,明治以降の風景観の変遷についての論考が多数発表されているが,水彩画の流行もまた,こうした視点から新たに検討し直す必要があるのではないだろう16 _
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