鹿島美術研究 年報第18号
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治38年に水彩画の流行に合わせて刊行した雑誌「みづゑ」の読者の寄稿欄から抜き出してみると,水彩画の流行をもたらした背景として,次の四点が浮かび上がってくる。第一に写真の浸透。これは写真そのものと同時に,写真製版が可能になったことによる印刷物における写真イメージの流布をも含む。第二に明治33年に私製の郵便葉書の使用が許可されたことに端を発する絵はがきの流行。第三に鉄道をはじめとする交通網の整備にともなう旅の大衆化。そして第四に,以上の情報やイメージが全国レベルで共有されるために不可欠な巨大出版社の成立,である。こうした水彩画家自身による,水彩圃の啓蒙活動の成果は一言で言えば,小島烏水が指摘するように「自然はいかにして観察すべきか,観察したるものは,いかにして写生すべきか」ということを分かり易く読者に伝えた点にあるといえる。眼前に茫漠とひろがる自然から,いかに「風景」を切り取るか,いいかえればを風景を観察するための枠組みを大下は提示したのである。同じように,自然を観察し描写することは,島崎藤村や徳富蓋花ら文学者においても,新時代に相応しい文体=写生文を模索する過程で繰り返し試みられたのだが,このような文章表現の改革と,水彩画の流布とが相呼応するように生じていることは単なる偶然ではなかろう。明治の後半は,新しい風景に対する感受性が,言葉とイメージの両面から研ぎ出された希有な時代として,今後さらに詳細な検討が加えられねばならない。② 「津軽家における小川破笠の制作活動について」発表者:永青文庫学芸員小林祐われておらず,また津軽藩における破笠の制作活動の具体的な様相もほとんど明らかにされていない。小川破笠(1663■1747)は,江戸時代中期に俳諧,絵画,漆工芸など多方面にわたり,その才能を発揮したことで知られる人物である。破笠の多彩な活動のうち,本研究では特に破笠が扶持を受けていた津軽藩第5代藩主・津軽信寿(1669■1746)との関係に注目する。破笠が津軽家に出仕していたことは,津軽家伝来の作品や資料により従来知られてきたが,それらの作品や資料の詳細な検討は未だおこな-17 -

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