どなかった。歌舞伎役者にとって,衣裳は最も有効な自己表現・演出の手段であり,その効果が役者としての評価,ひいては興行の成功を大きく左右することもあった。そのため,役者達は,珍しい素材や高価な布をふんだんに使用したり,染織技術を駆使して,役柄や涼出に深く関わる斬新なデザインや形状を考案した。このように衣裳はいわば同時代の可能性を追求した最先端の染織品であったにも関わらず,従来ごく一部の伝存衣裳以外には,実物の存在が知られていなかったため,具体的な研究はほとんどなされてこなかった。申請者がこれまで行った調査では,江戸後期以後の歌舞伎衣裳が,日本各地に数多く残されていることが明らかになっている。本研究では,それらの衣裳を江戸期の染織の多様性を示す有効な資料として取り上げる。〈もの〉としての歌舞伎衣裳は,染織品としての材質やデザイン,時代・地域による嗜好や受容,入手経緯,使用演目等を具体的に教えてくれる。これらの情報を読みとり,分析することで,衣裳の特殊性及び同時代性を,ある程度把握できるものと考える。この具体的な作業を基礎にして,最終的には,江戸期染織の多様で奥深い一面を浮かび上がらせたいと考えている。⑰ 日蘭貿易における陶磁史料の研究研究者:武蔵野美術大学通信教育部講師櫻庭美咲これまでの17世紀の日蘭貿易陶磁器を対象とした研究には,「東インド会社文書」(主な原典はハーグ国立中央文書館蔵)という日蘭陶磁貿易に関する最も基本的な資料を論拠とされることが多かった。それらは多くの場合,邦訳版『磁器と連合東インド会社』(原著.・フォルカー著,1954年発行,翻訳:前田正明)から引用された。ただし,同文献の原著は古文書を現代英語に抜粋要約したもので典拠と原文がなく,邦訳版は陶磁専門誌『陶説』に1979年から47回に分割,連載された試作的翻訳であるが,研究現場で長年用いられている。一方,研究論文に文書を使用する際,本来原典の調査は鉄則であるが,国内では同文書の調査が現在までほとんど進展していない。日蘭陶磁貿易史に関する「東インド会社文書」研究の中心オランダでは,前述のフォルカー氏以降はフィアレ氏(専門:日本工芸・文献史,特に漆)によって,さらに46 -
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