世紀半ばにおける参勤交代制の確立に伴う諸大名の江戸集住などの要因によって,絵画蒐集は中位の大名家などへもその底辺を著しく拡大したと考えられる。また,この要因として,茶の湯の盛行や,足利将軍コレクションに対するノスタルジーなども無視できない。このように絵画が武家階級の一種のアイデンテイティーとなったことと,鑑定の発達とはまさに表裏一体の現象と言えるのである。当時,古画には必ず「極め」が求められ,狩野探幽ら狩野派の絵師が鑑定書,外題,箱書き,紙中極という形でそれをほどこした。幸いに,狩野探幽が晩年に鑑定した絵画作品の縮図が大量に残っている。探幽は縮図を作成する際,所有者,持参者,作品の伝承とそれに対する意見,値段などのデータを書き留めている。この留め書きを精査することによって,当時の古画市場,価値体系,絵画受容,鑑定家の役割,中国と日本絵画に対する歴史意識を知ることができる。この「探幽縮図」の留め書きを解読及び分析し,そのデータを現存する同時代の鑑定書や狩野派画帖,画伝書等と照らし合わせる作業を通じて,この時代に作成された絵師の系譜が明確になる。と同時に当時の歴史意識が,江戸後期の画史画伝類や,明治時代の岡倉天心,フェノロサらに与えた影響などについても言及したい。⑳ 初期日本曹洞宗における祖師頂相の研究ー一道元から紹謹までを中心として—研究者:東京芸術大学大学院研究生禅僧の肖像画のことを特に頂相というのは,およそ北宋末から南宋の初めと言われている。頂相は,禅宗師僧が弟子に伝法の際,葬式,命日(掛真ともいう)等に用いる。喪・祭に影堂で遺影を陳設することは,北宋時代において,すでに一般社会に流行していた。肖像画を描かせることも勿論ごく普通のことであった。しかし,師弟相伝の信憑としての頂相は印可書と伝衣袈裟と同じ,日本初期禅宗僧団において重要視され,入僧及び来朝僧達によって,日本に将来された。そして日本も頂相を描かせることになったのである。ところが,日本美術史上にあらわした頂相は,主に臨済宗の祖師であり,曹洞宗のものは紹謹(重文)以外,皆無である。しかし臨済のものと肩を並べるものもあり,研究の価値を有すると思う。本論はこの空白を埋めようと目指している。よって初期日本曹洞宗の祖師達,特に入宋求法の道元とその門下三代の頂相を,周到に調査研究胡建明-51-
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