し,同時代の名品を比較しながら,その実態を明かにしたい。頂相の研究について新知見を生み出したいと思う。その際,道元の自賛像,観月蔵,二祖懐奨の頂相と太祖紹謹の頂相を中心として論述したい。傍証として,宏智と如浄の中国曹洞宗祖師の二幅を加えて,論究したいと思う。⑳ 響泉堂・森琴石の銅版画について研究者:大阪市近代美術館建設準備室響泉堂・森琴石の銅版画研究は個別研究とはいえ,いまだ解明されない部分が多い明治初期銅版画全般の研究に,寄与できるテーマと考える。黎明期の日本洋画は,司馬江漢,亜欧堂田善以来,油絵の技術とともに銅版画の技術が,つねに習得すべきものとしてあり,また東洋画とは違った美感を喚起するものとして認識され,油絵と銅版画が相携えてその中心課題となってきた。筆と顔料を用いる油絵が,基本的に東洋画法の材料用具とそれほど相違しないのに比し,硬い鉄筆で線(とりわけ直線)を刻み込む銅版画は日本の画人にはさらに異質な材料用具であり,その線でクロスハッチの明暗を表現し,線遠近法を跡づける行為が,油絵以上に西洋画法の理解に資したことは創造に難くない。近世銅版画や洋風画の研究は,すでに多くの先人たちによって研究が進んでおり,また日本近代洋画の研究も飛躍的に進んでいる。その中にあって,明治期銅版画(石版画も含め)のみが未開拓の分野であることは,「日本の洋画」,あるいは「近代日本の絵画」の理解にも大きな盲点が取り残されていることを示している。とくに,本研究の対象である森琴石が南画家であったことは,さらに興味深いテーマの展開へと誘う要素を内包している。すなわち,日本近代絵画史の一般的理解は,明治20年代前半期の日本の美術界で最も強い勢力を誇ったのが南画と,ついで洋画であり,それがフェノロサのポレミーク的活動などの「国粋主義」運動を契機に,明治20年頃に日本美術院流の「新日本画」や黒田清輝らの外交派洋画に取って代わられた,というものである。琴石の銅版画と南画を検証することで,明治前半期の美術のありようの一端が窺えようし,その価値が滅びるに値するものでしかなかったのか,今日的視座から再検証することも重要であると考えられる。-52 -熊田司
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