鹿島美術研究 年報第19号
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の原因は,狩野派肖像画には,美術品としての評価がほとんどなされてこなかったことにあると考えられる。しかし,初期の段階より肖像画制作の記録は多く,その注文が狩野派にとって主要な収入源の一つであった可能性は十分に考えられる。狩野派の画業において小さからぬ位置を占めていたことは確実であり,その実態は明らかにされなければならない。まず,確実な基準作として認められている作品との比較により,現在作者について明らかにされていない肖像画の中から,狩野派の作品を見出し,その様式,技法,図像,像主,注文主等の基礎データを可能な限り多く収集する必要がある。特に,細川管領家や三条西実隆らと文芸活動を共にした人物の俗人肖像画や,戦国武将の帰依を受けた林下の禅僧の頂相に,初期狩野派の基準作とされている肖像画と,画風や形式の点で近似する作品が少なからず含まれており,狩野派の肖像画制作の実態を知る上できわめて重要な資料となると考えられる。これらの肖像画群には,様式的に確立されていない形成期の作品が含まれている可能性もあり,もともと一派であったと考えられる土佐派の作品と詳細に比較することにより,これまで不明な部分の多かった正信時代の様式形成についても考察を加えることが可能である。また,狩野派史の考察においても,肖像画の様式形成の過程を明らかにすることは,現存作品の多くない鑑賞画の様式形成についても重要な示唆を与えることになると考えられる。さらに,肖像画に付随する賛などの情報によって,狩野派工房の発展の経緯について新資料を提示することができるものと思われる。-79 -

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