分析を行い,従来の第一形式•第二形式という分類から一旦解放した上で,改めてい19世紀前半のベルリンで活動した画家エルトマン・フンメル(1769-1852)の画業呼ばれる涅槃図の成立に関わったとする見解が根強くある。ところが,明恵周辺において制作された可能性が指摘されている京都・高山寺本および和歌山・浄教寺本の二点の涅槃図は,いずれも平安時代以来の図像的特徴を受け継ぐいわゆる第一形式に含まれており,現存作品を見る限り明恵が第二形式の涅槃図に関与した形跡は認められない。しかも高山寺本と浄教寺本を比較すると,図像や表現技法には単純に同一形式として一括りにすることはできない相違点が多く指摘でき,明恵周辺では涅槃図の受容に多様な段階があったことを想像させる。本発表では,改めて高山寺本と浄教寺本を詳細に分析することで,明恵が在世時にいかなる形で涅槃図制作に関与したかを,おもに図像面から解明したいと考えている。考察に際してはまず,両涅槃図について同時代の作品と図像や表現技法について比較かなる図像系統に属するのか解明を試みる。さらに異なる二系統の涅槃図像がともに明恵周辺で採用されるに至った経緯について,明恵が実際に涅槃図を用いた場である涅槃会の儀礼内容の変遷とも関連づけながら私見を述べたい。以下,見通しだけ簡単に述べておこう。まず高山寺本は,釈迦の姿型をはじめ総じて南都を中心に流布した涅槃図像と共通点をもつが,これは明恵が紀州において涅槃会をはじめた当初から,解脱房貞慶を介して南都の涅槃儀礼から強く影響を受けていたことと関係していると思われる。一方の浄教寺本は,図像面だけでなく裁金の使用など表現技法にも京都との接点が窺え,後世の涅槃図に受け継がれていく新しい図像をも含む。さらに従来から指摘されている仏弟子を十六羅漢として描く点だけでなく,釈迦の上方に火炎宝珠を載せた天蓋を描く点についても,『四座講式』を典拠にしていると考えられる。こうした浄教寺本の特徴は『四座講式』による独自の涅槃会整備に邁進しつつ,入宋経験をもつ勝月房慶政と涅槃信仰を介して交流していた,京都・高山寺における明恵の事績と合わせて考えるべきであろう。③ 「エルトマン・フンメルの芸術における遠近法の役割について」発表者:日本学術振興会特別研究員尾関は,従来三月革命前期の写実主義絵画の流れに位置づけられてきたが,その絵画作品を画家の遠近法による構図実験の場として捉える研究はほぽ皆無に等しい。幸-17 -
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