同時代絵画の歩みうる一つの可能性を示したのである。おいても様式の拡充を図る。一点透視図法にかわって,二点の消点を起点とする動的な遠近法構成を試みる他,鏡と陰影表現によって絵画空間を多層化する試みが多く見られるようになる。それまでの絵画史において,画中の鏡は主に画中に描かれない情報を観者に提供する手段として使用されてきた。翻ってフンメルの鏡は,基本的に画中の空間を反復するものでしかない。だがそれは遠近法の消点を複数化し,新たな間を一つの絵画空間挿入する契機となっている。更に20年代半ばになると,鏡面に写し出された物が画中の空間に存在するものと等しく構図を決定するようになる。意味の伝達手段であることを離れた,このような遊戯的な鏡の使用法は,当時として極めて近代的,進歩的であった。陰影表現においても,フンメルは独自の境地を開いた。フンメルの関心は,従来の絵画史において,立体の量感を表現する「Schatten」に比してあまり重視されてこなかった「schlagschatten」に集中している。「Schlagschatten」は投影法の知識をもって初めて精確に素描されうる。フンメルは自然光による影の輪郭線と遠近法の消線を交差させることによって,絵画平面に複数の消点を導入し,絵画空間を多層化する契機とした。絵画が建築との密接な関わりのもとに発展したベルリン画壇において,フンメルの教育活動は多大な貢献をなした。だが,フンメル自身は建築画にも,建築にも手を染めることなく,あくまで遠近法の普及者,素描芸術の守護者でありつづけた。理論重視の姿勢は,最終的には次世代に支持者を見いだすことができず,その作品は画家の死後忘却されていく。ルネッサンス期,遠近法は世界を人間の視点から捉え,その主観的視界を数学的法則に則って二次元の平面に固定する手段であった。フンメルの絵1820年代にはいると,フンメルぱ活動の重点を著作活動に移す一方で,絵画制作に合』は,解放戦争前後期のベルリンのサロン文化を今日に伝える絵画資料と見倣されている。だがその構図を分析するならば,これらの作品が1817年制作の『最後の晩餐』と,一貰した絵画実験の延長上にあることが理解される。「テーブルに集う人々」を一点透視図法の緊密な建築的絵画空間におき,古典主義美術の作法で処理することによって,フンメルは1814年の『フェルマーテ』,1819年の『チェスの試-18 -
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