④ 「江戸時代中期の公家文化における画家の研究ー近衛家熙と「中山花木図」をめぐって一」(1714)に薩摩に来た際にその写生図に賛を寄せたものであるとされている。画作品において,それは逆に人間の主観的視界を数学的法則に従属させる手段となっていたのであった。発表者:彰考館徳川博物館学芸員近藤べく萌芽を数多く見出すことができる。本発表では,まず木村探元筆「中山花木図」というこれまで絵画史において殆ど取り上げられることのなかった作品を取り上げる。そしてこの作品を媒介として,近衛家煕の動向や絵画観,そして彼をとりまく画家の活動について考察を加える。さらにこれらの考察を通して,家煕を中心とした公家文化圏が,日本のみならず中国や琉球といった対外関係とも大きく関わっていたことを指摘する。木村探元(1679■1767)は,江戸時代中期の薩摩の画家で,狩野探幽に私淑して上し,鍛冶橋狩野家に入門,帰郷後は薩摩藩(島津家)の御用絵師として活躍している。中山とは琉球のことで,「中山花木図」という写生図は,琉球の花や木を精緻に描した作品であり,その原本は,琉球の儒学者である程順則が慶賀使として正徳4年「中山花木図」は,この「程順則着賛本」系統と「無賛本」系統に大別されるが,今回,計6点の「中山花木図」(摸本を含む)の調査を行った結果,この内の1点(無賛本)が,近衛家旧蔵本,かつ近衛家煕が茶会で披露した「琉球ノ物産生写ノ絵巻物」(『愧記』/享保9年(1724)10月23日条)であり,それは家煕による特別注文であった可能性が高いことが判明した。また他の摸本からも家煕歿後の京都における文化人の密接な交流も看取できる。江戸時代中期(享保〜宝暦年間)即ち光琳歿後から大雅,応挙,若沖といった画家が華々しく台頭してくるまでの時期は,絵画史において一般的に停滞期とされる。しかしながら,近衛家煕(予楽院)をはじめとする公家社会で交流をもった画家たちの活動に注目すると,決して単なる停滞期ではなく,そこには絵画史的にみても極めて重要な意義,次世代へ受け継ぐ壮-19 -
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