鹿島美術研究 年報第19号
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日場辻1672■1743)に花鳥画制作の依頼をしていることが知られている。また本土より「佛1735〉/探元が近衛家に招かれて上京したとき日記)に家煕および渡辺始興(1683■1755)の3人で画について語り合う箇所がある(享保20年閏3月24日条)。ここで注目一方,家煕は島津家(薩摩藩)を通して,琉球の画家・山口宗季(中国名・呉師虔/桑花」「梯梧」といった「中山花木図」にも描かれているモチーフの画の注文も受けている。宗季は,琉球に生まれ,琉球王朝に仕え,元禄・宝永年間に国費留学生(この国とは琉球国のこと)として中国,福建省の福1+1に留学し,写生的花鳥画家・孫億(1638〜?)に四年間師事した画家である。木村探元の『京都日記』(享保19■20年〈1734■できることは,山口宗季やその師・孫億の話題がのぽっており,家煕が琉球の学問・文化を非常に高く評価していることである。更にその中で家煕は,いち早く粉本による画の制作を批判し,実物写生の重要性を説いているのである。当時,琉球は薩摩藩の統治下にあったが,例外的に中国との国交が認められていたことから,家煕は,孫億などの同時代の最新の中国画や琉球の画を島津家を介して,相当数入手している可能性も指摘できる。故に『京都日記』にみられるような家煕の絵画観が生まれ,また狩野派である探元が「中山花木図」なる写生的な画を制作できたとも考えられる。このように「中山花木図」を媒介とすることによって,中国(福朴I)から琉球,薩摩(島津家),そして京都(近衛家)という一つの写生画の流れがあることも確認されるのである。本発表は絵画史において停滞期とされるこの時期についての新たな位置付けを試みるものである。(3) 東京美術講演会本年度の東京美術講演会は,『黄金の夢と輝き』を総合テーマとして,高階秀爾・東京大学名誉教授の司会により,以下の通り実施された。時:2001年11月9日魯)所:鹿島建設KIビル大会議室出席者:約120名講演:①「生活空間の変容」② 「地上の財宝と天上の光輝ー中世美術における金彩の用法と意味ー」大手前大学人文科学部教授武田恒夫氏名古屋大学名誉教授佐保子氏20 -

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