⑯ 中国河南省南響堂山石窟における西方浄土変の研究多くの研究余地が残されている。なかでも1870年代にさかんに作られた複製エッチングは,挿絵入り出版物を最大の注文者とし,多様な領域を横断する絵画イメージの媒介者とみなすことができる点で興味深い。とくに注目したのは,そうした複製エッチングがしばしば,個人コレクションをはじめとする「市場の趣味」を視覚化する役割を果たしていた点である。1873年の『ガゼット・デ・ボザール』とオテル・ドゥルオの挿絵入り競売カタログの挿絵を通した協力関係はその格好の例である。ここを出発点とした調査からは,一見つながりを持たない各地の動きがエッチング挿絵入りカタログの存在によって結ばれ,その背後には1830年代派の風景画のための投機的市場の形成を企図する集団の存在が浮かんできた。申請者は,1870年代の複製エッチングの流行が新聞雑誌,画商,コレクターらを担い手とする新たな美術制度の成立と密接な関係を持っていたと推定する。この問題の近代美術史上の意義,そして近代版画史の「欠落部」が持つ美術史的重要性は明らかである。本研究を通じて,近代的な美術制度の黎明期に複製イメージを利用した絵画の価値形成メカニズムがいかに働いたのかが明らかになるととともに,パリの絵画市場とベルギーの画商やコレクターとの関係にも新たな光があたるだろう。また,1870年代の複製エッチングを研究対象として取り上げることは,19世紀のエッチング・リバイバルの一般化という観点からも意義深い。複製エッチングと挿絵入りカタログ制作の結びつきを促進させた最大の要因は,イメージ伝播力である以上に,版画複製の持つ審美的価値,効果にあったと考えられる。最終的に本研究は,絵画イメージの複製/解釈をめぐる分析を通じて,版画の作品評価の地平にも新しい視座を加えることができるはずである。研究者:早稲田大学大学院文学研究科博士課程大西磨希子本研究の目的は,南響堂山石窟の浮彫西方浄土変2点について,所依経典を検討し,中国浄土経美術史の上でどのように位置づけられるのかを解明することにある。私はこれまで敦煽莫高窟の唐時代の西方浄土変について研究を進めてきた。その結果,松本榮ー氏以来,一般に『観無量寿経』(以下,『観経』とする)所説はその殆んどが盛唐期の西方浄土変の外縁部に末生怨説話や十六観の図として描かれると考えられていたのに対し,実際には初唐期の外縁のない作例に『観経』の十六観に基づく図-43-
元のページ ../index.html#69