鹿島美術研究 年報第19号
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像が,阿弥陀浄土の景物として描き込まれていることを明らかにした。また,初唐期には『観経』への関心が高まり,これと時を同じくして西方浄土変が流行していることから,阿弥陀の西方浄土を視覚化するという西方浄土変の制作そのものに『観経』信仰が深く関わっている可能性を論じた。これにより私は,唐代以前の初期作例についても,それらの背後には『観経』の存在を考えるべきではなかろうかと考えるにいたった。本研究はこうした見通しのもと,北斉時代の南響堂山石窟の2作例について調査検討を行うものである。本研究でとりあげる南響堂山石窟の2作例は,単純な図様ながら唐代以前の初期作例としては唯一,唐代以降の西方浄土変と基本的な画面構成が共通している点で特に重要である。また,同じ石窟に2点制作されている点でも貴重で,かつ浮彫であるため麦積山石窟第127窟の壁画等よりも保存状態が良好であるなど,図像研究の条件に比較的恵まれている。加えて,響堂山石窟は北斉の都である鄭に近く,高歓父子や霊裕ら北斉道俗界の重要人物が造営に関与しており,北斉仏教における浄土教美術を知る上でもその存在価値は大きい。そこで本研究では,実地調査にもとづく図像研究と文献研究から,南響堂山石窟の西方浄土変の所依経典や思想的背景を明らかにし,同時に従来ほとんど論じられることのなかった北斉浄土教美術に光をあててみたい。さらには,なぜ北斉の南響堂山石窟に唐以降の西方浄土変の祖型ともいえるような作例が生み出されたのか,換言すれば,なぜ南響堂山石窟のタイプの西方浄土変が唐以降に受け継がれ発展していったのかという,浄土教美術史の根幹に関わる問題の解明に及ぶことを最終的な目的としたい。⑰ 慶派の造像活動の展開について—天台との関わりを中心に__研究者:栗東歴史民俗博物館学芸員松岡久美子本研究の目的は,慶派が活動範囲を拡大してゆく過程を考える一環として,天台との関わりを明らかにすることにある。従来,慶派の活動については,鎌倉時代初頭の南都復興期のイメージから重源や南都,鎌倉幕府等との関係が注目をあつめる傾向があり,鎌倉時代初頭の天台における-44 -

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