—中国美術の影響とペルシア絵画史における位置付けー一~造像活動については,院派・円派が中心とする見方もあった。しかし運慶や快慶の世代が晩年をむかえる頃からは,それまでに培われた人脈を伝って必ずしも特定宗派や社会集団にとらわれず,活動を展開させたと思われるふしもある。天台は鎌倉時代においても仏教界の一大勢力で,地理的にも人的交流からも京都の宮廷をはじめとする中央と密接な関わりを持っていた。その中心となる比叙山の麓には,慶派風の作品がかなり残されていることが明らかにされつつある。また,滋賀県下をみても,いつくかの慶派の,あるいは慶派風の作品がすでに知られている。ただし現状においては滋賀県下に限っても全体像の把握には不十分な点もあり,今後の調査によって滋賀県および比叡山と関わりの深い地域を中心に,これを補い,その上でこのような作品を生み出した背景に,天台と慶派との関係がどのように,どの程度存在するのか,またどのような契機によるものなのかなどについて,鎌倉時代全般を視野に入れつつ考察を進めたい。このことにより,当時の慶派のおかれた立場がより明らかにされよう。また,近江という場所は,都の影響を大きくうけておりながらも,その周縁部として地方への展開という要素も芋んでおり,このような土地への展開の状況を見ることは,中央仏師が地方へ活躍の場を求めてゆくという動きの一端をとらえることにもっながってゆくのではないか。⑱ イル・ハーン朝写本・ビールーニの「al-Atharal-Bagiya」の挿絵における一考察研究者:連合王国立エジンバラ大学文学部博士後期課程門井由佳エジンバラ大学に2003年秋に提出予定の博士論文では,ヒレンブランド教授の指導の下,3年間のプロジェクトとして絵画・織物・陶器・金工芸品,建築装飾など,全般に渡って14世紀ペルシア美術の発展と中国美術の役割について考察するが,この調査研究が絵画の章,そして博士論文全体の出来を左右する鍵となることは疑いない。ビールーニ写本の挿絵をこの1年間の調査研究に当てる理由は,この挿絵のペルシア絵画史における位置付けがあまりにも曖昧なので,何故14世紀前半イル・ハーン朝時代に写本芸術が急激に発展したのか,何故首都タブリーズでドゥモット本『シャー,ナーメ』(1330頃)などの傑作が生み出され1つの黄金時代を作り上げたのか,などの-45 -
元のページ ../index.html#71