「場所」の喪失を明瞭に物語っており,さらに垂迦曼荼羅をふくむ中世宗教絵画全体の見取り図の不在をうかがわせるものといえる。しかし,近年垂迩曼荼羅については,名所絵,説話画,絵巻物,風景画などの各種の研究の中で論及される機会が増えており,その特質の解明が,宗教画の枠をこえて中世絵画史研究に大きく資するものである可能性が明らかになりつつある。そこで本研究では,垂迩曼荼羅研究の基礎作りの一環として,これを本尊とした礼拝儀礼に着目する。具体的には,鎌倉時代の遺品,または画讃を有する作品の作風研究・図像研究・讃文研究を核として,さらに垂迦曼荼羅の礼拝に際して読誦・朗唱されたと考えられる講式や和讃などの唱導史料,およびその本文を部分的に摂取した布教テキストを収集整理し,これらを総合して垂迦曼荼羅の儀礼の構造や宗教的意味を考察する。こうした儀礼面からのアプローチによって,垂迩曼荼羅を中世絵画史のしかるべき位置に定位していく手がかりが得られることが予測される。作品と資料の豊富さ,そして中世本地垂迩説の展開史における役割の大きさから判断して,旧仏教の拠点である叡山と南都の事例,すなわち山王曼荼羅と春日曼荼羅を中心に研究を進める。⑯ 近代大阪における女性画家の研究ー一息i成園と木谷千種を中心に_研究者:大阪市立近代美術館建設準備室学芸員小川知子明治末から大正時代にかけて,平塚らいてうの「青踏」運動を発端として,新しい時代にふさわしい女性像が声高に主張された。こうした文学的,社会的な女権拡張動向と同じ時代に美術界での女性の台頭が興ったのは,決して偶然ではない。女性が受ける教育の向上,「職業婦人」の増加などが女性の社会進出に対する世間の意識改革をうながした。しかしその一方で,女性画家は「女絵師」と興味本位で見られ,ゴシップ記事の対象となる時代でもあった。京都の上村松園と東京の池田蕉園は明治末頃より名声を確立し,そこに文展デビューした大阪の島成園が大正初期に加わり,松園,蕉園とともに「三園」と謳われた。孤高な努力で大成した上村松園は,男女の差を超越し名実ともに美人画の第一人者であるが,早世した池田蕉園と,活動期の短い島成園に関する実質的な研究は未だない。こうした空白を埋めるため,本研究では,大阪画壇研究の一環として,また近代女-60-
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