—日仏交換美術展出品作《蘇州の雨》をめぐって一一—確認し,その基礎資料を集積する作業は重要な意義を持つと考える。この時代,大名の子女の婚礼は江戸府内でのみ行われ,婚礼調度の製作も江戸の町の中に限られていたため,鍋島家に関する考察は他の大名家でのあり方に繋がるからである。また,蒔絵調度は古来より上層階級に好まれ,日常生活と切り離せないものであったにも関わらず,あるいはそのためにか,特に婚礼調度に関しては幸阿弥家に代表される幕府や大名のお抱え蒔絵師の活動ほどには,諸藩のお抱え蒔絵師やその制作の態に関する研究は進んでおらず,鍋島家の場合も同様である。そこで,藩政資料から婚礼・祝事に関する事項を中心に探り,「蒔絵」「蒔絵師」に関する基礎データを集積し,佐賀藩鍋島家と蒔絵調度についての問題,即ち佐賀藩にお抱え蒔絵師は存在したか,婚礼調度とそれ以外の蒔絵作品の制作のあり方の違い,また献上品として高い意識のもとに鍋島焼や肥前刀を生み出した佐賀藩が,こと蒔絵に対してはいかなる意識を持っていたか,等について考察する。⑯ 竹内栖鳳とポール・クローデルの交流について研究者:お茶の水女子大学教務補佐員福永知代本研究には,大きく分けて二つのねらいがある。第一に,先述した「《蘇州の雨》騒動」について入念な調査のもと,実態を明白にすることである。しかし,これはあくまでも栖鳳に関わるエピソードとして事実関係を掘り起こす目的に留まるものではない。当時,フランスは帝国主義的見地から,アフリカ・アジア諸国の博物資料や美術品の収集を進めていたわけだが,この一件でフランス政府が無償での作品の寄付を要請した際に日本の外交官僚・松岡新一郎が示した反発は,おそらくそういった「標本対象」とされることへの拒絶反応であったと思われる。ところが,それが一転して政治的全面解決(リュクサンブール美術館への寄贈,サロン会員への推挙,およびシュバリエ・ド・ラ・レジオン・ドヌールの叙勲)に至ったのは,ひとまずクローデル個人から栖鳳へ,公的な立場を離れた働きかけがあり,美的に解決が図られたからであったと推測する。それらを論証した上で,当時の栖鳳と西洋の関係や,この経験がその後の栖鳳芸術にどのような展開を与えたかをあきらかにしたい。また《蘇1+1の雨》は-69 -
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