⑰ 劉生と京都栖鳳の代表作のひとつと目されながらも,リュクサンプール美術館に寄贈されて以後,ほとんど論究されていない。そういった点からも栖鳳研究を補完しうるものとなるであろう。第二に,栖鳳がクローデルの「水は墨を導く」という言葉や,余白を実在ととらえる見方にインスピレーションを受けたこと(「墨絵の叙景詩」)の意味について,栖鳳やクローデルの作品に具体的な証左を求めつつ,検討することである。このことにより,渡欧以後の栖鳳における異文化接触と作品への影響をみてとれるであろう。また,クローデル研究の側に立ってみても,特に親交が深かった冨田渓仙の場合は別として,その他の日本の美術家との交渉についてはまとまった研究はなされていないようである。なぜ,クローデルが京都在住作家への偏向を示したのか,それは彼の日本美術観と関係があるのかといった問題にも回答がだせればと考えている。研究者:京都市美術館学芸課長岸田劉生(1891■1929)は,1923年の関東大震災勃発後,京都の洛東南禅寺に2年4ヶ月にわたり居を構える。古美術収集と放蕩三昧に明け暮れたこの時期は,とりわけ劉生の短い生涯と画業のなかでも,晩年にいたる制作活動の下降期への端初とされ,その評価に関しては芳しくない。しかしながら,『デロリ』という言葉で劉生が表現したような,初期肉筆浮世絵や岩佐又兵衛などに代表される,日本的美意識の独得で濃厚な一面を過去の美術品を通じて確認するには,古美術の宝庫である京都は彼にとっては,まことに最適な土地であった。劉生自身には,『内なる美』と称した,西欧産の油彩技法による作品制作を通じて獲得した美意識と自己の作品群を,古美術の収集によって,より広範な日本的美意識へと連ねたい,という欲望があったのである。本研究では,克明な備忘録,ドキュメントともなっている『劉生日記』の悉皆的調査により,劉生と京都画壇,および関西の美術家たちとの交流関係,古美術商を通じた執拗な収集意欲の足跡を探り,またこの時期に制作された作品群の再精査をすることで,これまでの幾多の劉生研究が等閑視してきた「劉生の京都時代」が岸田劉生の篠雅廣_ 70 _
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