鹿島美術研究 年報第19号
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画業全体に与えた意義を評価するものである。⑱ 中国四川省出土阿育王像に関する調査研究研究者:早稲田大学文学部助手金子典正意義・価値:成都から出土した仏像のうち阿育王像であることが銘文によって知られるのは,北周保定二年から五年の間(562-565)に制作された万仏寺址出土像と,西安路出土の太清五年(551)銘像のみであるが,申請者がこれまで現地で調査した限りでは四川省博物館にこれとまったく同形式の身体表現・服制でほぼ等身大の無銘仏像が4体所蔵されている。これら計6体の仏像はいずれもインド式の薄い衣を纏った立像で,少なくとも梁末から北周にかけて成都において阿育王像という一定の意味とかたちをもつ仏像が信仰されていたことは疑い無い。本研究の第一の目的は,こうした阿育王像という固有の名称をもつ造像の起源と,中国への伝播ルートを,文献と実物を十分に駆使しながら明らかにすることである。成都万仏寺址出土像など南北朝時代における四川省の仏像は,はやくから吉村怜氏によって当時の南朝の都であった建康の仏教美術の強い影響下にあることが論じられてきた。阿育王像については,近年,宿白氏がきわめて簡略ながらもその源流は建康にあると推測している一方で,インド的な要素に注目して西城から吐谷渾ルートを経て四川に伝播したとみる論者も見受けられる。確かに『高僧伝』等にみられる西城僧の入蜀の記述によれば吐谷渾ルートは十分に考えられる。しかし,それを重視するあまり,建康仏教の動向を踏まえた精緻な文献史料の検討が欠如している感があり,例えば梁武帝が阿育王に傾倒していたことや,それに関連する阿育王塔建立事業など,阿育王像の制作を考察するうえで不可欠な事例についてまった<触れられていないのが実状である。これはひとえに,従来では実作例が北周像のみに限られ,詳細な研究もなかったためであろうが,近年西安路から梁代の紀年銘像が出土し,さらには同形式の仏像が複数存在することが明らかとなった現在では,本調査研究は上記のような見解の不一致を解消するうえで有意義であるばかりでなく,阿育王像に関わる文献史料の研究によって建康〜四川の仏教文化の諸相がより鮮明に浮かび上がり,南朝の仏教美術を具体的に把握することができる本研究の価値はきわめて高い。構想:以上のような阿育王像を中心とした問題を立脚点として,精力的に未公開仏-71 _

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