ンス、展覧会歴を更に調べる。以上の基礎的研究に基づき、ベーコンの作品、行動と対照させることは、ベーコンの想像力の形成過程を明らかにするとともに、今日まで続くイギリス美術の特徴「奇想」の系譜を確認することにもなるだろう。⑮ 幕末明治文人画家天野方壺に関する基礎研究研究者:愛媛県美術館学芸員梶岡秀一本研究は、幕末明治の文人画家、天野方壺の作品の落款印章について把握することを直接の目的とする。これは画業の検討にも結び付く。だが、彼の画業について検討することは、単に一人の画家について知るだけではなく、明治期の「つくね芋山水」と称された流行現象について考える上でも意味ある材料の提供につながると思われる。最近、方壺令孫より明治17年(1884)1月付の自筆の履歴書の複写の提供を受けた。それにより、彼の学歴、旅行歴、号とその使用時期を知ることができた。方壺は、文崎の木下逸雲にも学び画技を広げ、全国を旅して写生を重ね、明治にいたり京都に定住。明治28年(1895)数え年72歳で没した。京都府画学校出仕となったことで今日にその名が伝わり、富岡鉄斎との交友もあったという。彼の活躍したのは、いわゆる「つくね芋山水」文人画の流行の時代であり、彼もまたそんな画家の一人と見られることがある。だが、松山に伝わる彼の遺作群の中には緻密な描き込みを見せる完成度の高い作もあるし、ユニークな構想力による作も、華麗な色彩の作もあるのに気付く。そのような画技の広さを理由に、「つくね芋山水とは別格に彼を捉えることもできなくはないが、反対に、むしろ「つくね芋山水」の内実の方をこそ見直す必要があるかもしれない。このように考えるとき、現存する彼の作例を広く調査し、画業の全体像を知ることは、一般に「つくね芋山水」のー語で片づけられがちなあの時代の文人画について認識を改める契機になり得るだろう。政7年(1824)、伊予松山に生まれ、京都で中林竹洞に師事したのち江戸の椿椿山や長-81-
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