が、16世紀後半の対抗宗教改革期に、整備・再綱成される。大野さんは、イタリアのアルプス周辺地域に数多く建立された他のサクロ・モンテを比較検討して、各サクロ・モンテに固有の中心主題と、礼拝堂の配置および内部装飾とのあいだに相関関係があることに着目する。その上で、ヴァラッロにおける特殊性、愛すなわち、キリストの生涯のエピソードを辿る礼拝堂群の配置が敷地の地勢や、山頂部を理想都市エルサレムに見立て、キリスト受難の場としての「疑似空間」を創るという新たな構想の加味により、複雑になった点を明らかにした。バロック期の民衆教化の宗教的な仕掛としてのサクロ・モンテの意義については、近年欧米でも研究が盛んになってきた。今回は絵画と彫刻からなる内部装飾の図像解釈までは踏み込めていないが、その立論には説得力があり、サクロ・モンテ研究に寄与したことは疑いないため、受賞に値すると判断する。瀬谷貴之「貞慶と重源をめぐる美術作品の調査研究一釈迦・舎利信仰と宋風受容を中心に一」本論は、鎌倉時代のはじめ南都を中心に活躍した貞慶と重源の釈迦・舎利信仰と宋風受容について、美術作品や文献史料を考察・再検討することによってより具体的に明らかにし、加えて今後の研究に新しい展望を開いたものである。まず、宋風の強い京都・峰定寺釈迦如来立像(1198年)と像内納入品のうち結縁文が記される6枚の菩提樹葉(実際はシナノキ)に注目する。それら菩提樹葉は舎利と同体とされ、重源と関係の深い建仁寺・栄西が宋から請来した菩提樹を、重源が東大寺大仏殿前西側に移植したものから採取したものとし、また釈迦立像は全身金泥塗り、像高が50.6cmあることから、釈迦立像が貞慶建立の笠置寺十三重塔(1198年)の中尊と同様のもの(「皆金色―尺六寸」)として、峰定寺釈迦立像を、重源周辺から貞慶一派へ齋らされた宋画による同図像に依った可能性の高いことを指摘する。次に釈迦・舎利信仰の象徴である笠置寺十三重塔自体を問題にし、貞慶周辺では、伝統的な五重塔や七重塔に比して十三重塔が多く造塔されているが、その起源を重源によって鋳造された山ロ・阿弥陀寺の鉄宝塔(1197年)(「多宝十三輪塔」)のように宋にあるとし、その遺例として北宋の都であった河南省開封の祐国寺十三重塔(俗称「鉄塔」)や湖北省当陽の玉泉寺鉄塔などをあげる。最後に貞慶の宋風受容の本質が釈迦信仰の「真」を求めることにあったことを結論づける。-14
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