鹿島美術研究 年報第20号
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③ 「フランク・ブラングイン研究一日英美術交流の一側面として一」7)に洋画家・石橋和訓(1876■1928)がイギリスより帰国すると、ブラングインにに示している。東方(ビザンティン)において、福音書とは常に唯一不変のものであり、従って、新しいイメージ、特異なイメージを福音書挿絵中に取り入れることは、その不変性を維持するために、絶対に避けるべきものであった。福音書記者の肖像は、時代の隔たりを超えて見る者になお多くを語りかけ、西方と東方におし\てそれぞれ独自に展開されたイメージの世界へと、わたしたちを招いているのである。発表者:ポーラ美術館設立準備室学芸員佐藤みちこ術雑誌の記述と、国内にある作品を分析することにより、日本におけるブラングイン受容を明らかにしたい。(1) 雑誌記事にみるブラングイン受容日本の美術雑誌にブラングインの名前が見られるようになるのは、1910年(明治43)頃からである。まず彼のエッチング制作への評価が高まり、とくに『白樺』などの文・美術雑誌に掲載される図版は版画の愛好家に注目された。その後、1918年(大正対する関心はさらに強まる。石橋は美術雑誌でブラングインを紹介するとともに、持ち帰った104点の版画を展示公開した。ここでは、その反響を含む雑誌記事を紹介しつつ、ブラングインが大正期の日本に受け入れられた経緯を跡づける。(2) ブラングインの版画作品前述した104点の版画(国立西洋美術館寄託)は、おそらく国内最大のブラングイン・ベルギー生まれのイギリス人芸術家フランク・ブラングイン(1867■1956)は、油彩画、版画、さらには建築デザインなど多方面に才能を発揮した。日本では、松方コレクションのアドバイザーとして記憶されるとともに、イギリスに学んだ日本人画家との交友でも知られている。このように、ブラングインの人的交流については言及されてきたが、その作品はあまり知られていない。本発表では、美-18

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