(1538■1584)とノヴァーラ司教カルロ・バスカペー(1550■1615)の積極的な関与については、1980年代以降、古文書調査に基づく研究が進められている。その一方で、バスカペーの指示によって礼拝堂装飾に採り入れられた画面構成には注意が向けられておらず、その具体的な図像の解釈も手付かずのままである。しかしながら、サクロ・モンテが、巡礼地全体の主題、個々の礼拝堂内部の表現、礼拝堂配置という三要素によって成り立っている複合的な巡礼地であることを考えれば、ヴァラッロにおいて礼拝堂の内部構成に新たな要素が加えられたことは、構想そのものの変化と考えることができよう。さらに、ヴァラッロの巡礼地の再興と同時期に北イタリアの各地にサクロ・モンテが建立されるようになったことは看過しえないことである。ヴァラッロにおける変化の意味を解明するためには、当時の社会環境において、サクロ・モンテがどのような場として捉えられていたのかを理解しなければならない。16世紀末にこの特殊な形式の巡礼地が注目された要因の一つとして、ヴァラッロで実現された、訪れる巡礼者を心理的に巻き込む力をもった迫真性に富む表現が、トレント公会議以降のカトリック教会が求めていた宗教芸術のあり方に合致していたことが挙げられる。また、ミラノ大司教区において、カルロ・ボッロメーオの指導の下、日常生活の中での信心行為が推奨され、例えば、四つ辻に十字架が建てられ、毎夕、その前で祈りを捧げる〈十字架の兄弟会〉が設立されるなど、日々の生活空間である都市をも黙想の場に変えることで信者が信心を実感するような場が作り出されていたことも、16世紀末にヴァラッロのサクロ・モンテが再興された背景と考えられている。本発表では、16世紀末から17世紀初頭に創建されたクレア、オルタ、ヴァレーゼのサクロ・モンテの成立事情および初期構想を検討しながら、「対抗宗教改革期のサクロ・モンテ構想」を解明することに努めた。本研究は、今後のヴァラッロのサクロ・モンテ研究において、明らかにされるべき、対抗宗教改革期に採用された新しい内部構成の意義や、そこでの図像の意味の具体的な研究に繋がるものである。⑤ 「貞慶と重源一釈迦・舎利信仰と“宋風”受容をめぐって一」発表者:日本学術振興会特別研究員(東北大学)瀬谷貴之解脱房貞慶は鎌倉時代初期、南都教学復興運動に活躍した人物で、近年、歴史学の分野を中心に、とみに注目されている。一方、俊乗房重源は東大寺鎌倉再興造営を成し遂げたことから、歴史学はもとより、美術史においても多くの研究が積み重ねられ20 -
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