金沢文庫本)と、その関連史料である『逸名勧進状類従残篇』(東寺宝菩提院本)『貞慶抄物』(東寺観智院本、おそらく東寺の両本は『讃仏乗抄』の逸文)『祖師上人御作抄』(東大寺本)『解脱上人文草』(東京大学史料編纂所影写本)がある。これら諸本を検討したところ、『讃仏乗抄』に収録されるすべての作文が、貞慶起草であることが明かとなった。そして、そこにみられる貞慶関係の造寺・造仏を中心とする作善のいくつかが、重源の『南無阿弥陀仏作善集』のものと重なることから、従来から部分的に指摘されてきた、両者の密接な関係がより鮮明となった。また、貞慶は建久三年(1192)以降、笠置寺を本拠地としたが、『南無阿弥陀仏作善集』を検討すると、重源はその中心堂宇である、般若台六角堂の中尊釈迦如来像、十三重塔納置の宋版大般若経、加えて梵鐘をも施入している。このことからは両者の並々ならぬ関係が知られるが、ここで見逃せない作品に鎌倉時代前期の海住山寺四天王像と峰定寺釈迦如来立像がある。海住山寺四天王像は、近年注目される東大寺鎌倉再興大仏殿に安置された四天王像の模刻である、いわゆる「大仏殿様」の作品とされ、貞慶所縁の舎利が安置された海住山寺五重塔に伝来したことが推定されている。もうつ、峰定寺釈迦如来立像は、宋画写しと思われる形制と金泥塗りの仕上げから、顕著な宋風受容を示す彫刻作品として名高く、また、その納入品銘から、貞慶周辺で造像されたことが知られる。そして、海住山寺・峰定寺の両作品は、実は、記録から知られる笠置寺十三重塔に安置された釈迦如来像・四天王像と、仕上げと像高が一致し、その模刻像である可能性が高い。これを裏付けるように峰定寺釈迦如来立像には重源が宋から請来した菩提樹の樹様が納入される。以上のことから、貞慶と重源の関係が笠置寺、とりわけ十三重塔を中心に展開することが知られるのだが、貞慶と重源の周辺には、このほかにも当時としては珍しい形てきた。本研究発表では、貞慶と重源の関係が密接で、その中心に宋の影響を受けた釈迦・舎利信仰があったことを、関係する美術作品や資料の考察を通して明らかにしたい。そして、日本中世美術史上、大きな課題である“宋風”受容のありかたについても考えてみたい。貞慶研究の重要史料として、貞慶作の願文・勧進状・諷誦文などを多く含む『讃仏乗抄』(東大寺本・-21 -
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