鹿島美術研究 年報第20号
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研究目的の概要① 奈良時代後期における大字写経の研究—善光朱印経を中心として一一—研究者:九州大学大学院人文科学府博士後期課程川上忍貴子本研究で着目する善光朱印経(以下、朱印経)は、天平勝宝八歳(756)から宝字四年(760)頃に制作された一切経であり、約30巻が現存する。朱印経は、通常の写経より文字の大きい大字写経である。これらの肉太で重厚な書体の大字写経は、奈良朝後期に盛んに制作されるようになるが、その原因は一般に、大聖武の影響を受けた結果である。当時の写経生がこの大聖武に多大なる刺激を受け、それ以降、大字写経が流行したとされてきた。しかし、奈良朝の写経機構は、一切経約五千巻を制作する大組織であり、そのような中での写経制作に、書き手に過ぎない写経生の嗜好が反映されたとは考えにくい。近年、歴史学の立場から、朱印経ば法華寺の伽藍整備の一環として、光明皇太后が発願したものであり、総国分尼寺の威信にかけて制作された、いわば当時最良の新写一切経であるという見解がだされた。またそのテキストが、五月一日経であったことがあわせて指摘されたことは、写経の書を考える上でも大変興味深い。それは、五月一日経の界幅がそれまでの通常規格の1.8cmであったにもかかわらず朱印経では2.4cmと、文字の大きさも約1.3倍に拡大して書き写されているからである。これまでの写経研究における大字写経の書の評価は、五月一日経を頂点に、後はそれを打破しようと形に溺れていったとされるなど、その評価は決して高くない。しかし、正倉院文書研究の成果により朱印経の大字の書体があえて選択された可能性がでてきた。申請者はこれまで、国家規模での書体の選択には、時の権力者の意識が大きく関与しているのではないかという新たな観点から研究を進めてきた。この朱印経に五月一日経と異なる大字があえて用いられたものも発願者である光明皇太后の意識が関与している可能性が高いように思われる。本研究では、これらのことを検証するために以下の考察を行う。(1)朱印経と五月日経との書体を調査により比較し、その相違を明らかにする。(2)そこにみられるの相違が何に起因するのかを唐代写経・大聖武などの先行作例をもとに考察する。(3)その形が朱印経に求められた理由を制作背景により考察する。以上、本研究では、こ-32

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