鹿島美術研究 年報第20号
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境のなかでいかなる意味をもって受容されたのか、あるいは仮に画家がその所与の環境下でなおも自己の作品に固有の性格を生成させようとしたのであれば、その着想源はどこに求められるのかを明らかにしようとする点で意義があろう。当該の「描かれた画枠」について、たとえば初期ネーデルラント絵画の研究の前進に寄与したパノフスキーは1953年の記念碑的著作において、複合オブジェとしての近代的性格を認める以外は、ことのほか簡単に触れるにすぎなかったといえる。のち1960年代のケンメラー=ゲオルゲ以降、その形式の淵源を墓碑彫刻に求める論考などが提出されるかたわらで、画像の表現領域の自律性を促す近代的な「額縁」機能を前提とする大略的な歴史記述のなかで、「描かれた画枠」は、いわばその萌芽として扱われている。しかし、パノフスキー以下のイコノロジー的研究への反駁が数多く提出されるような流れと並行して、保存科学を専門とする研究者によって、画枠部分を含む支持体の物理的構造に関する科学的な調査結果が漸次発表され、さらに受容美学的な手法による作品の意味付けなどが複層的にからみあうなかで、興味深い方向性が生まれつつある。すなわち、「描かれた画枠」の形式の着想源として、ひとつには墓碑彫刻、もうひとつには祈祷書や時祷書の装丁を想定しつつ、当該形式の作品図像の淵源として故人を記念する肖像彫刻や東方キリスト教的な宗教図像も視野に入れて、それらを相対的に検証しようとするものである。申請者によるこの研究の構想契機は、まさにその方法への同調にある。この研究では、ヤン・ファン・エイクの当該作品のうちでも比較的〈聖母子像〉に重点を置き、イタリア絵画と同様にビザンチン・イコンからの影響を前提とする1980年代のパートルによる提唱を承けつつ、「描かれた画枠」の形式と図像、作品をめぐる画家の意図と注文主あるいは所有者の受容行為の意味という各々が不可分の関係にあったことを輪郭づける。⑤ プロレタリア美術運動の軌跡_小樽ゆかりの画家を中心に一一研究者:市立小樽美術館学芸員星田七プロレタリア美術運動の代表的な画家、漫画家で、1945年新宿駅で爆死した柳瀬正夢は、その芸術性と思想について繰りかえし緻密な調査がなされ、高い評価が定まった。しかし、運動に参加した幣しい画家たちの中には、大月源二のように柳瀬に決し-36 -

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