鹿島美術研究 年報第20号
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て劣らぬ画家がおり、その研究が十分になされてきたとはいえないだろう。地域ゆかりの美術家として、小林多喜二に親しみ、その著書の装丁、挿絵を全面的に任された大月源二、また塩谷村(現小樽市)の村長を父にもちながら運動に身を投じた高森捷三、小樽新聞でプロレタリア漫画を描いていた加藤悦郎、『無産者新聞』『戦旗』の表紙や挿絵の専属画家であった稲垣小五郎など、中心メンバーとして活躍した小樽出身の美術家は多い。彼らの作品は、政治的な緊迫感や葛藤と密接な平行関係にあり、絵画同様、大衆にアピールするためのプロパガンダである漫画、ポスターにも全力を注いだ。さて、たび重なる弾圧で、運動は次第に画壇から孤立し壊滅していったが、現存の作品には、山宣(山本宣治)葬を描いた大月源二「告別」のように、美術史に残る記念碑的な作品があることは確かだ。今日知る人は少なく、継承されるべきものが放置されるのは残念なことである。運動が壊滅した後も、北海道に戻った大月は、民主美術展を開催した。その活動を基礎に1952(昭和27)年「生活派美術家集団」を組織し、20年間にわたってプロレタリア美術運動を再興しようとした。それだけに彼らの足跡を調査研究することは最も重要なテーマと認識している。岡本唐貴は、小林多喜二の死顔を油彩で残した。岡本は、いつか後世の人々に理解してもらいたいという願いから「造型」からPPに至るまでの貴重な資料を保存したトランクを、菊池明子氏に託している。小樽とこの運動の深いつながりを理解する同氏の協力を得て、調査に役立てたいと願っている。また、これまでの展覧会活動、例えば「前衛と反骨のダイナミズム」(2000年)で蓄積した人脈を活かしながら、丹念な調査研究を行いたいと考える。⑥ 華厳と法華、その表裏の図像学ー一日本所在の朝鮮王朝の王室仏画を中心に一一研究者:京都大学大学院文学研究科博士後期課程申請者が研究対象とする朝鮮前期作例の中で、とりわけ王室関係の作例は、優品にめぐまれ、中国の現・明朝や前代の高麗との関連性が農かに内包されている。この時期は(14世紀末〜16世紀)、中国を始めとする東アジア諸国が大きな歴史的転換期を迎えた。単なる政治的変動というにとどまらず、これに伴う文化的変動の大きさは注目に値する。仏教美術を指標した東アジア文化の影響関係を考察することは中国文化を37 -姜素妍

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