る対外的受容のあり様を明らかにすることにあります。その分析素材として、五台山騎獅文殊菩薩を取り上げる理由および意義は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、その作品が比較的多く現存していることから、平安時代後期、特に院政期における日本の対外受容のあり様を、現存遺品に即して具体的に考察することができると考えられるからです。院政期彫刻史は、特に宋代美術の受容といった側面では、白衣観音像など新たな図像の流入が知られながら、現存遺品がないこともあって、鎌倉時代以降に盛んになる宋代美術受容の前段階として捉えられる傾向が多分に大きかったと思われます。したがって、本図像を取り上げることによって、院政期における対外受容の変遷について本格的に論じることが可能となり、その点に本研究の大きな価値を見出せると言えます。また、そればかりではなく、本図像の受容変遷について検討することは、平安後期から鎌倉時代にかけての彫刻史を通時的に見通すことを可能とします。なぜなら、十一世紀前半に中国より請来された五台山文殊菩薩像が、摂関家により平等院経蔵に安置されましたが、院政期において、この平等院経蔵像は規範化していたことが知られており、院政期における、ある図像の規範化と伝播という問題を通して、院政期がどのように摂関期の文化を継承したかということを具体的に捉えることが可能であると思われるからです。これは、定朝様の継承という彫刻史上の問題とも密接に関わるものと言え、院政期・摂関期両者の文化的特質を相対的に把握することができるものと思われます。このように、本研究は平安時代後期全般の文化史的特質を、受容という側面から捉えることを意図したダイナミズムある構想のもとに成り立っています。⑳ 琉球漆芸の南伝性について—加飾(堆起漆)と巻胎素地の比較__←研究者:那覇市市民文化部歴史資料室主任学芸員宮里正子沖縄県は琉球王国として、およそ500年間独自の国家を営んでいた。中国の臣下として、朝貢冊封関係を持ちながら、中継交易国家として独自の文化を成立させた。には中国定はじめ、朝鮮や南方諸国そして日本からさまざまな人や物が行き交い、エ芸や芸能、食文化など多岐にわたってアジアの貌が見え隠れする複合文化を創り上げた。漆芸についても、中国や日本、南方諸国の影響を大きく受けながら王国独自の漆芸-49-
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