鹿島美術研究 年報第20号
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ク状の樹木で埋め尽くされた碗型の山(御蓋山)とその陰に一回り大きくやや暗めの色調で彩色された峰をもつ山(春日山)、その端の月輪、やや離れて山裾のみ少し見える金泥彩色された山(若草山)が描かれる。この三山の表現は実景描写という枠を越えて補陀落山や霊鷲山などと同様に、一目でそれとわかる“かたち”を獲得し、春日を象徴的に表す「図像」として確立される。通常、狭義の垂迦画には含まれない地蔵菩薩画像やボストン美術館所蔵の九曜七星影向図など、この図像を取り込んだ作例も多く制作されており、こうした絵画群の調査を併せて進めることで、垂迩思想を反映した表現が中世絵画史においてどれだけの裾野を広げていたのかを明らかにしたい。他の信仰圏の垂迩曼荼羅についても、山王曼荼羅に関しては「唐崎の松」、熊野曼荼羅に関しては「那智滝」など、同様の指摘ができると思われる。⑱ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ洗礼堂の増改築とその装飾から見た機能の変遷研究者:お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程申請者は前述した近年活発な洗礼堂研究の成果を受け、以下の二点をキーポイントとして留意しながら考察を進めたい。第一にあらゆる洗礼堂の形態的、象徴的モデルであるラテラーノ洗礼堂自体が改変される際にはどのような背景があるのかという点である。まず4世紀の創建以来、古代世界から初期中世への転換期と見られる6、7世紀にかけてのキリスト教都市ローマの変遷、それに対応するローマ独自の教会組織であるテイトウルス教会の展開という教会組織を中心とした都市綱成へ移行する時代であるという歴史的観点は重要な要素として見逃せない。また当時の司教らの洗礼に関する言及などに目を配り、キリスト教解釈、典礼の変化も考えなければならない。第ニに洗礼堂は時代が下るとともに洗礼のための建築という独自の機能が稀薄となり、機能面において多様化し、その点では同時に教会堂との差異が小さくなるが、その過程は時代の異なる礼拝堂の装飾にいかに反映されているのかという点である。洗礼堂の機能的位置付けの変遷を視点に入れることで、個別に語られることの多かったこれら装飾について新しい見地を提供することを意図している。ラテラーノ洗礼堂を考察対象とすることは全体的な洗礼堂史の流れの縮図を概観することにもなり、洗礼堂に関する今後の研究の基礎を広げ、厚くすることである。64 -米倉立

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