鹿島美術研究 年報第20号
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絵師となるのは如慶の子具慶の代からである。国会図書館蔵「土佐住吉絵所系図」等の系図類には、如慶が、時期は不明ながら禁裏御用・東福門院御用を務めたと記されている。では如慶は、禁裏の絵師として「東照社縁起絵」制作に携わったのか。それとも、ただ天海お声掛かりの一絵師として携わったのだろうか。探幽・如慶両者の制作上の立場の解明は、江戸幕府の絵師選定の意図一江戸幕府が「東照社縁起絵」にどのような役割を期待していたかーを明らかにすることでもある。日本史・思想史の分野では、近世社会において東照大権現とは何だったのか、という問題について様々な角度から盛んな検討がなされてきた。「東照社縁起絵」諸本の成立過程の様相からその政治的機能を指摘する本研究は、日本史・思想史分野にも新しい視点を提供することができるのではないかと考える。⑮観音来迎図の研究研究者:東北大学大学院文学研究科博士課程後期清水本研究は南都信仰圏を中心にいくつかの作例が知られる観音来迎図を個別にではなく包括的に取り上げて研究することで、観音来迎図というイコンがどのような要請によって形成され、展開・流布し、また他の聖像と習合していったのかを、複数の作例を用いて信仰史的側面から明らかにしてゆくことを目的としている。従前十一面観音来迎図について考察した川口陽子氏は、十一面観音来迎図についてその伝来を確かめ、それが観音霊験寺院に伝わったものとし、各画像間の図様の近似については所依教典の一致によるものと結論づけた。しかしながら、観音来迎図の伝来する寺院は、興福寺末寺あるいは興福寺と関係の深い南都地方の律宗寺院が大半を占め、寺院間相互の宗教的繋がりが考慮されてよいように思われる。また多くの作例は南都絵所で制作されたものと考えられ、制作に携わった工房の問題も検討すべきであると思われる。本研究はこのような視点から観音来迎図を改めて捉えなおし、如上のような問題意識のもとその実相に接近しようと試みるものである。本研究は申請者がこれまで行ってきた、南都信仰圏を中心に流布する補陀落山浄土図(観音浄土図)の研究・中世南都観音画像の研究の一環をなすものであり、これまで明らかにし得た成果を取り込み、中世南都信仰圏における観音菩薩の信仰を、画像というイメージを通じてより具体的・深層的に把促しようとするものである。また観健-71 -

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