おける美術作品の中には、明らかに手段としての美術が自律性を獲得し、目的であったはずの宗教性をしのいでいるものがあることが判明しているが、本研究はより多くの作例に関して同様の指摘ができると思われる。また聖遺物の一般公開行事である聖遺物展観についても、美術史的な観点からの研究は、なお十分になされていないが、ザクセン、ブランデンブルク両宮廷はこの行事を大々的に行った代表的教会を有しており、未公刊の関連史料の分析などによって、より具体的にその公開の形式や様相が明らかになると思われる。宮廷による民衆への美術作品の呈示という点において、美術作品を通しての宮廷と民衆の接点としてのこの行事の重要性を明らかにしたい。また、とりわけこのような民衆による美術鑑賞を考慮した美術パトロネージに関する本研究の成果は、教育学部に在籍する立場として今後の研究目標の一つとして申者が考えている、「前近代における美術鑑賞および美術鑑賞教育の源流の探求」にとっても、教育・社会貢献的側面からも興味深い素材となりえよう。⑰遼代低火度焼成陶器の研究一―—遼三彩の成立過程ー一研究者:青山学院大学大学院文学研究科博士後期課程井上桂子本研究の目的は遼三彩の成立過程を追うことによって、遼国内で生産された陶磁の特性をあきらかにすることにある。中国陶磁器の受容の仕方には、輸入地の社会情勢を反映したそれぞれ地域の特殊性があらわれている。「遼磁」として広く知られているやきものに、遊牧民の日用品である水や酒などをいれる皮袋のような造形の「皮嚢壺」もしくは「鶏冠壺」と呼ばれる扁壺がある。ところが1981年に郎州窯址の発掘調査がおこなわれ、提梁式白磁皮嚢壺が出土したことから遼以外の地域でも皮嚢壺を焼成していたことが明らかになった。さらに近年、代黄堡窯・観台磁1+1窯・寺龍口越窯・龍泉務窯址などの詳細な調査報告書が刊行され、遼代陶磁の大半が那州窯・定窯・山西省の介休窯をはじめとする倣定窯・磁州窯系・越窯系・耀州窯系・景徳鎮系などの他地域の窯からもたらされたものであると認識されるようになった。五代・北宋の陵墓が薄葬であり、多くの皇陵が破壊されたため、当時の様相がいまだ解明されていない点が多い。それにひきかえ近年の発掘調査で遼の領土であった現-75-
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