める志向とそれを受入れる基盤を、小田観音堂の所在する「場」や観音菩薩の尊格そして造像された平安時代後期、11世紀半ば頃よりあとの博多を中心に対外交易で活況を呈していた福岡平野の様相を視野に入れ究明したもので、その解釈は知的興會を掻き立てるものである。小田観音堂は博多湾と玄海灘との境界で志賀島と対峠しながら、海を見下す位置にあり、逆に中国大陸や朝鮮半島に向かう交易船に乗る人々はこの小田観音堂を見上げ、観音に航海の無事を祈った。観音菩薩は航海の守護神的な性格が強く、小田観音堂は光明寺と伝称されるが、この呼び方は観音の住処である普陀洛山を光明山というのにも通ずる。小田観音堂の千手観音立像は頭体の根幹部を広葉樹の一材から彫り出し、内剖りを施さないなど古様を留めるが、面貌や着衣には柔らかさと新しさが増し、独特の迫力と異風を醸し出すところとなっている。この異風の依ってくるところを、本研究は博多湾沿岸を拠点とし大海を往来し東アジアを舞台に交易を行っていた商人たち、特に宋商(博多綱首)の経済力と造像感覚に求め、九什Iにおける仏像の様式史的な考察に加え、社会経済史的な広い視野から解釈を下したもので、論述には説得性もあり、地方における仏像の作風研究に将来の展望を開いたものとして高く評価される。月典子「ニコラ・プッサンにおける古代美術の受容」ニコラ・プッサンにおける古代美術の受容は、すでに同時代の17世紀、ベッローリ、フェリビアンといった伝記作家や批評家のもとで論じられ、その後今日に至るまで、プッサン研究の重要な問題であり続けてきた。今回、鹿島美術財団賞の対象となった望月典子氏の研究報告は、数多くの先行研井形進「福岡平野と異風ある菩薩像ー/]、白観音堂の千手観音立像を中心に一」本研究は、九州博多湾の北西部、小高い丘の頂にある小田観音堂の観音菩薩立像3躯のうち、主として千手観音立像について、その像高が2メートルを越す大きな仏像が都風の洗練された円満整美な様式とは違った、中国にもなく日本でも素直には馴染みにくい異風漂うものであるのに注目し、その常ならざる異風を求_ 14 _
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