「19世紀後半のフランス絵画におけるキアロスクーロに関する研究美術批評記事から、京都画壇の他の日本画家も同じように西欧美術雑誌を参考に新しい日本画を制作していたことが窺える。明治42年頃からセザンヌやゴーギャンなどの印象派以後の作品とともに西欧近代芸術思潮が流入し、絵画制作が「個性」の問題として捉えられるようになると、ヨーロッパのアカデミーの影響を受けたこの時期の日本画は急速に顧みられなくなってい今回の調査研究は、栖鳳が明治33(1900)年パリ万国博覧会視察以後もたらした西洋絵画による新しい日本画模索の一時期として位置付けられるだろう。明治30年代後における萎倦の西洋絵画の受容は、ヨーロッパのアカデミーが中心であり、制作に利用できるモティーフの借用というやや原初的なものであるが、次に到来する西欧近代芸術思潮の影響を乗り越えるために必要な準備期間であったといえるだろう。ーモネとジェロ_ムの作品を中心に一」発表者:新潟県立近代美術館主任学芸員平石昌子なされている。しかし、クロード・モネが試みた色彩による明暗関係の置換は、彼自身の鋭敏な感覚と観察に根差したものであると同時に、三次元の空間の表象を正確に射程に収めたものでもある。それ故、詩情に満ち、しかも説得力のある奥深い自然描写が可能となっているのである。ただ、彼がそれを成し遂げたのが、「青い色彩を帯びた影」という絵画の常識を覆す手法であったがゆえに、画面が明る<平板になったという表層的な効果が強調され、青い影という手法が本来逆説的に内包していた奥行きの表現性は印象派において、絵画に影と奥行きが表されなくなったことは美術史上の一つの定説となっている。絵画はキャンバス上で色彩の輝きを獲得した代償として、物理的な奥行きと精神的な奥行きを失ってしまい、後にそれに対する反動として後期印象派が生まれ、更には世紀末の象徴主義運動へと展開していったと見るのが従前の前衛美術史の一元的な解釈であった。つまり、明暗法の長い歴史に、印象派は空隙を生じさせたと見-17 -
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