鹿島美術研究 年報第21号
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かし福岡平野には、そのような構図に馴染み難い作例も、散在しているのである。目につくのは菩薩像で、その好例が、博多湾北西部の小高い丘の頂に所在する、小田観音堂の千手観音立像である。この千手観音立像は、像高234.2cmを測る、大きく個性豊かな木彫像である。は平安時代の造像と見られながら、この像の、古様な構造、それに比較すると新しさを感じさせる彫口、異色な肉身や衣縁の表現、それらが渾然となって醸し出す独特の異風は、従来積極的な評価を困難なものとしてきた。そのような中で今回私は、一般的な日本彫刻史の基準を踏まえつつ、北部九州の平安時代前期の作例や、延久3年(1071)に造像された、壱岐鉢形嶺出土の弥勒如来坐像など、極力福岡平野とその周辺地域にある作例と比較を行うことで、まずは年代的な位置付けを試みた。そうしてこの像は、古様にも見えながら、11世紀、およそその半ば頃から後の造像とみるのが穏当だという考えに至ったのである。11世紀の半ば頃といえば、いわゆる定朝様の、円満整美な仏が広がりを見せ始めた時期にあたる。観世音寺においても、治暦2年(1066)に造像された丈六の聖観世音菩薩坐像は既に、まさしく円満整美な姿を体現しており、遠の朝廷「大宰府」の存在を背景に、ここを起点としつつ、都の動向に倣う造像が展開していった様子を偲ばせている。そのような中で小田観音堂の千手観音立像が、時を近しくして、そして恐らくは、新しい仏の姿に触れた後になお、確たる志向と技術とをもって、異風ある姿に造像されていることは興味深い。これは、福岡平野には、このような仏像が造像され受け容れられる、もうひとつの充実した基盤が、共に存在していた、ということを示すものであろう。私はこの基盤を、この頃、博多綱首を要として充実を見せていた、博多湾岸憔界ではないかと考えているのである。博多綱首とは、博多に居住して交易を行っていた宋人である。さて、このように、小田観音堂の千手観音立像の造像が、一般的な地方での造像と少し趣を異にして、都を意識しつつも唯一絶対の規範とするものではなく、盛んな交易により活況を見せる博多湾岸地域の充実を、確かに反映するものだとすれば、この様な造像活動はこの後、その基盤が存続していた期間は、博多湾岸地域を中心として、展開していた可能性があろう。そしてこれは概ね、博多綱首の時代とも称される、11世紀後半から13世紀の前半までを、それと想定し得るのではないかと考えている。際、この頃に造像されたと考えられる異風ある作例は、福岡平野に散在しているので-19

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