鹿島美術研究 年報第21号
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そのために、(1)について①から③の観点を設定した。具体的には、①は、たとえば将軍自筆画の下賜、大名の襲封.致仕における美術品献上・拝領といった、政治的な装置としての美術品の典型的なあり方をみる。②は、家綱が自らの姿を絵画に留めさせた、事跡図と呼ぶべき作品を取り上げ、家綱および周辺の絵画的嗜好、御用画家としての狩野派の仕事の実態などを考えたい。③は御用絵師狩野派の武家文化への関わりをみる。特に注意したいのは、武家文化の監修者として絶大な影響力をもった林家の存在であり、狩野派の活動を同家との関係からみることで、当時の狩野派のあり方をより鮮明にとらえることができると考える。そして、(1)における個々の作品や事例の検証を、最終的に(2)の目的に沿って整理し、家綱政権をめぐる画事の総体をみ、その特性を明らかにするとともに、当時の狩野派の在り方について再考したい。④ 神原泰研究――—その同時代西欧美術受容者としての側面を主に一一—研究者:財団法人大原美術館プログラムコーデイネーター本研究の主目的は同時代西欧の前衛芸術活動の受容者としての神原泰の一面を明らかにすることである。神原は、早くも1910年代からイタリア未来派と文通を果たし、またピカソ、マリー・ローランサンなどパリのキュビスム運動についても原著の収集を通じて、同時代の日本人としては抜きん出た状況理解を有していた。このような西欧から受容しだ情報は、当然、神原の詩そして、絵画という実制作に反映され、また文筆活動を通じての情報提供、さらに批評活動としても展開される。こうした活動について明らかにすることは、実制作者としての神原のみならず、情報提供者、批評家という面を含めた神原の全体像の検討に寄与するであろう。また、神原個人にとどまらず、大正期以降の日欧の前衛芸術活動の交流全般を跡づける一助ともなる。また1910-20年代は主として、画家など実制作者が日本の美術界に対する西欧の情報提供者、そして批評家をも兼ねた機能を果たし、やがて1930年代に至り本格的に専門の批評家の登場を見る。こうしたなかで、神原は実制作者でもありながら、直感的な印象批評でもなく、また作品より収集できる情報のみによって構成される言説に偏柳沢秀行-33-

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