容を背景とするクレーの東洋への関心、また、詩・文学など言語領域への関心に基づく重層的なイメージ・ネットワークに少なからず関与している点についても徐々に解明が進んでいる。しかし、ミニアチュール作品を調査・分析の中心に据え、その成立意義について図像学的かつ制作論的な観点から総合的に作品解釈を行った研究は未だ見当たらない。本研究は、こうした研究状況を踏まえ、従来詳細な検討を加えられていない1910年代ドイツにおけるミニアチュール研究とクレーとの接点、また同時代前衛美術におけるミニアチュール受容に照らしたクレー作品の意義解明を念頭におき、進める。〈金色の縁のあるミニアチュール〉を所蔵する宮城県美術館は、ほかに、これと成立の近接する〈紫と黄色の運命の評きと二つの球〉(1916年)、また、ミニアチュール作品にも該当例が含まれる「切断の手法」による〈アフロデイテの解剖学〉など、表題作品と関連の深いクレー作品を併せて所蔵している。本研究の成果は、日本国内に所在するそうしたクレー作品を公開する公立美術館にとって、将来にわたり、より多角的な意味的ネットワークのもとに作品を媒介するために必要不可欠な調査・研究と考えられる。⑦ 江戸時代後期における北信濃の文人趣味研究者:長野県信濃美術館学芸員伊藤羊子山田松斎こと信濃国高井郡東江部村の七代山田庄左衛門は、19世紀初頭、信州有数の豪農として活躍した人物である。先行研究により近世豪農論の視点から松齋の政治的・社会的役割や、儒者としての亀田鵬斎、頼山陽との交流は明らかにされている。近年公開された松斎の江戸・上方への旅日記には、松斎が師、亀田鵬斎の私邸に約一ヶ月滞在し、酒井抱ーや鍬形慾斎ら、江戸文人たちと交流する姿が記されている。これにより松斎の江戸での具体的な交流や活動がはじめて実証された。一方、漢詩人、柏木如亭研究により、松斎をとりまく地域としての信朴I中野の文芸活動が明らかとなり、松斎の文人活動の主要な人脈を18世紀末から19世紀初頭の当地での文人ネットワークのなかで確認することが可能となった。その結果、松斎をとりまく信州中野周辺に展開された文芸活動は小林一茶と葛飾北斎をつなぐ北信濃の地域文化そのものであることが確認できた。-36 _
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