鹿島美術研究 年報第21号
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⑮ 「日本美術」における「東洋」研究者:千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程千葉「日本美術」はいかにして「東洋」を物語ったのか。それはどのような政治的意味をもっていたのだろうか。福岡アジア美術館や国際交流基金アジアセンターの開館、展覧会『アジアのモダニズム』『東アジア/絵画の近代』など、1990年代以降、日本の美術界において「アジア」という主題が突出してきたことが認められる。一方で、界は別として、一般社会において「亜細亜」「東洋」「東亜」という言葉はほとんど使われていない。それらの言葉に付着する戦前日本の帝国主義の残滓を世人が認めているゆえであろう。申請者はこれらの言葉の再使用の必要性を認めるものではないが、これらをしっかりと再検証しないで、隠蔽(忘却)することはやがて「東洋」「東亜」や「亜細亜」が「アジア」という衣に身を包み、中身は同じロジックを残しながら復活する場を空けて待っていることに等しいのではないかと考える。本研究は、戦前の美術界における「東洋」概念のあり方を再考するものであるが、「東洋」の再考は同時に、現在の美術界における「アジア」概念の再考にもつながるのではないかと考えている。まず、本研究の意義は、「南画」への着目という点にある。中国由来の美術として江戸時代から盛んになった南画は、明治期に入り「日本美術」が確立する段になって、その中国性(「支那崇拝」と弾劾された)ゆえに「美術」から排除されるに至った。大正期に入ると南画は一躍「西洋美術」にも匹敵するものとして再評価されることになるが、そこには日本の帝国主義化が少なからず影響していたことを先行研究は指摘していない。南画は「日本美術」の境界領域であり、その価値評価の変化は「日本美術」の変化を象徴していることが指摘し得る。また、対象としての「東洋」を考察する際に、作家の旅行記に大々的に注目した研究は他に例を見ない。旅行記の丹念な収集とデータベースの構築は、「東洋」のステレオタイプ的イメージの形成過程を明らかにすることに大いに寄与するものであり、今後の研究において有用な資料を提供することになると思われる。慶-44 -

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